小笠原信辰
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時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 貞享3年2月16日(1686年3月10日) | |||
死没 | 享保21年2月28日(1736年4月8日) | |||
別名 | 大学(通称)、河内入道 | |||
戒名 | 法専院殿一祐愚入大居士 | |||
墓所 | 福井県勝山市の開善寺 | |||
藩 | 越前勝山藩主 | |||
官位 | 従五位下、駿河守 | |||
氏族 | 小笠原氏 | |||
父母 | 父:小笠原信秀、養父:小笠原貞信 | |||
妻 | 正室:水野忠直の娘 | |||
子 | 養子:小笠原信成、小笠原信房 娘(小笠原信成室) |
小笠原 信辰(おがさわら のぶとき)は、越前勝山藩の第2代藩主。
貞享3年(1686年)2月16日、初代藩主・小笠原貞信の子・小笠原信秀の長男として江戸で生まれる。元禄15年(1702年)に祖父の貞信が隠居したため、祖父の養子として家督を継ぎ、第2代藩主となる。しかし実権は祖父の貞信がなおも握っており、さらに家督をめぐっての内紛も起こるなど、治世当初から混乱が起こった。
さらに元禄16年(1703年)、宝永3年(1706年)、正徳元年(1711年)、正徳5年(1715年)など連年にわたって大坂加番に任じられた上、江戸屋敷の焼失や公家接待の饗応役、勝山城の築城などの出費が重なって藩財政が苦しくなった。享保4年(1719年)には病に倒れて藩政を執ることが困難になったため、享保6年(1721年)4月25日に家督を養子の小笠原信成に譲って隠居し、河内入道と号した。
その後は白山温泉で療養していたという。享保21年(1736年)2月28日に勝山で死去。享年51。
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