少弐政資
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少弐 政資(しょうに まさすけ、?-明応6年(1497年))は、室町時代、戦国時代の武将。北九州の名門少弐氏当主。少弐教頼の子。少弐高経・少弐資元の父。頼忠、政尚。大宰少弐。高祖城城主。
室町幕府とその機関である九州探題、それを背景とした周防の守護大名大内氏とは長年対立してきた少弐氏であったが、応仁の乱で大内氏が西軍につくと、教頼・政資父子は東軍の細川氏と接近し、幕府への帰参を果たした。1468年、九州で蜂起した父が大内氏に敗れ戦死したため、政資が家督を継いだ。政資は大内氏に奪われていた筑前、豊前を回復し、経済的には大陸との貿易を頻繁に行うことにより利益をあげ、また、のちには肥前の千葉氏の内紛につけこみ弟を当主として送り込み千葉胤資と名乗らせるなど、少弐氏を一時的に中興する。しかし、長年の盟友であった対馬の宗氏を離反を許してしまい、さらに、応仁の乱の終了後、大内政弘が再び北九州への侵攻を開始すると劣勢となり、政弘の子の大内義興の代には政資の追討令を幕府より得た大内氏の全面的攻撃にさらされ、筑前を放棄し肥前に退避したものの、執拗な追撃を受け、傘下の国人の多久氏の居城である梶峰城に拠ったが、多久宗時の離反によりそこからも追放され、専称寺において自刃した。子のうち、高経は政資とともに討たれたが、資元が肥前の横岳氏の横岳資貞を頼って落ち延び、少弐氏はかろうじて存続した。
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