山内豊常
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山内 豊常(やまうち とよつね)は、土佐土佐藩の第7代藩主。
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 正徳元年8月2日(1711年9月14日) | |||
死没 | 享保10年9月2日(1725年10月7日) | |||
別名 | 亀千代、大助(幼名) | |||
戒名 | 旭光院天岳良英 | |||
墓所 | 高知県高知市天神町の真如寺 | |||
官位 | 従四位下、侍従、土佐守 | |||
藩 | 土佐土佐藩主 | |||
氏族 | 山内氏 | |||
父母 | 父:山内豊隆 母:北川氏(円徳院、スワ) |
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兄弟 | 久米千代、山内豊常、氏松、整、長 | |||
妻 | 正室:松平定逵の娘・幾姫 | |||
子 | 実子なし。養子:山内豊敷 |
正徳元年(1711年)8月2日、第6代藩主・山内豊隆の次男として生まれる。兄の久米千代が早世したために世子となる。享保5年(1720年)、父の死去により後を継いで藩主となるが、幼少のため、父により失脚させられていた分家の山内規重を復帰させ、さらに三宅尚斎を登用して補佐とした。
しかし享保6年(1721年)に規重が死去し、尚斎も政界から引退したため、豊常は幼くして自ら政務を執ることとなる。豊常は父と違って早くから聡明と言われ、将来を嘱望されていたが、享保10年(1725年)9月2日に死去。享年15。
継嗣が無かったため、山内規重の嫡男・山内豊敷が養子として後を継いだ。
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