左右田孫兵衛
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左右田 孫兵衛 (そうだ まごべえ、寛永13年(1636年) - 享保8年12月15日(1723年4月4日))は江戸時代前期の武士。高家吉良家家老。赤穂浪士討ち入りのときにも吉良邸にいた。名は重次(しげつぎ)という。
吉良義周が吉良家を相続した際に義周付きの家老となる。100石取り。討ち入りの際には、子息と見られる左右田源八郎(中小姓・7両)が討ち死にしたが、彼は生き残った。そのため、同じく家老の斎藤宮内とともに長屋の壁を切り破って逃げたという不名誉な噂がたった。吉良家が断絶となったのちも山吉新八郎とともに義周に従い、配流先の諏訪藩高遠城へ供した。義周が没したあとは三河吉良へ戻り、そこで静かに余生を過ごした。享保8年(1723年)2月29日に死去。享年86。墓は吉良吉田の正覚寺にある。法名釈順知。
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カテゴリ: 元禄赤穂事件関係人物 | 1636年生 | 1723年没