市川團十郎 (初代)
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初代市川団十郎(しょだい・いちかわ・だんじゅうろう、万治3年(1660年) - 元禄17年2月19日(1704年3月24日))は元禄歌舞伎を代表する江戸の名優。立役を得意とし、荒事芸を歌舞伎に導入して人気を博した。
万治3年(1660年)生まれ。父親は「面疵の重蔵」の二つ名を持つ顔役で、甲州武士の子孫と伝えられるが明確ではない。幼時の伝記はほとんど伝わらない。芝居道に入って、延宝8年(1680年)に『遊女論』の不破伴左衛門役を勤めたのが、文献にあらわれる最初である。最初は初代市川海老蔵を名乗ったが、後に団十郎に改めた。
貞享2年(1685年)、江戸市村座において『金平六条通』の坂田金平を勤め、それまでの初期歌舞伎にあった「荒武者事」と金平浄瑠璃の荒事とを加味して、歌舞伎における荒事芸を完成させた。これによって東都の絶大な人気を博し、以後三百年にわたる市川団十郎家の基礎を築くことになる。
元禄6年(1693年)、上洛して京都の舞台に出演するものの評判は悪く、一年あまりで江戸に帰る。ただしこのとき椎本才麿に入門して、才牛の俳名を得た。
狂言作者としても三升屋兵庫の名前で活躍し、『参会名護屋』などの作品を残している。初期の荒事が歌舞伎のなかに定着してゆく過程において、団十郎が役者兼作者兼演出家として一人三役をこなしたことは、市川家の荒事芸が独自の性格を持つことに大きく寄与した。
元禄17年2月19日(1704年3月24日)、市村座に出演中、生島半六に舞台上で刺殺されるという非業の最期をとげた。享年45。