平島公方
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平島公方(ひらしまくぼう)(又は阿波公方)は、血統的には室町幕府11代将軍・足利義澄の次男足利義冬の末裔で、家柄的には、足利義視から義稙、そして義維と続く将軍家別家である。代々阿波国平島に住した。なお、公方と称されるものの、同系統の者で実際に将軍職に就任したのは第14代将軍足利義栄のみであるので、彼以外の場合は将軍家一族という意味で使われる。
織田信長に抵抗した三好氏に擁立された家系であるため、織豊期および徳川期にも冷遇され、江戸期以降は阿波徳島藩主・蜂須賀氏の客将として扱われたが、蜂須賀家は平島公方家に下級藩士並みの微禄しか許さず、後には足利氏の家名を平島氏に改めさせるなど冷遇した。鎌倉公方家の後裔で大名喜連川氏として存続した足利氏とは対照的である。 一方で、歴代当主の中には漢籍などに長けた者などが居たりすることもあって、一大文化サロンのようなものを形成していたこともあった。しかし1805年、9代の義根の時、遂にあまりの冷遇に耐えかね、蜂須賀家から離反して阿波を去り、姓を足利に戻した。その後は京に居を定め、等持院など足利氏ゆかりの寺院からの援助で細々と食いつないでいたという。
明治維新時、足利将軍家の正当な末裔として爵位を求めに行ったが、領地であった阿波から離脱していたなどの理由をもって却下されたうえ士族にもなれず、平民身分とされた。足利別家にあたるので、嫡流が絶えた今、この家こそが足利家本流といえる。
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