悪来
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父親は、蜚廉(ひれん)と言う。蜚廉は走ることに長け、悪来は剛力で知られ、その能力を認められて殷の紂王に仕えた。その後、紂王によって国政を任せられるが、人を讒言し、傷つけることが巧みであったので、諸侯から嫌われ、諸侯はますます殷から遠ざかり、殷周革命を促進させた。
蜚廉の子、悪来の弟に季勝という者がおり、その子孫が春秋戦国時代の晋の趙氏になったという。
また蜚廉の別の子に悪来革という者がおり(異説:(この項で述べている)悪来には革という子がおり)、この子孫が嬴(えい)氏を名乗り秦に封じられ、春秋戦国時代の秦の祖になったといわれている。
悪来の功績の善し悪しはともかく、その剛力ぶりは伝承・伝説として伝えられていたようで、三国志演義において曹操が典韋を見たときにその剛力ぶりを見て、「これは古の悪来の再来だ」と言い、以後典韋のあだ名になった。
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