斎藤利藤
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斎藤 利藤(さいとう としふじ、? - 明応7年1月12日(1498年2月3日))は、室町時代の武将である。美濃国守護代斎藤利永の嫡男。帯刀左衛門尉、越前守と称す。
父の死後、守護代職を継承するが、実権は叔父の斎藤妙椿に握られ、守護代として力を揮う事は出来なかった。妙椿が死ぬと、室町幕府に接近し幕府の権威を借りて、異母弟で妙椿の養子となった斎藤利国(妙純)と争い、文明12年(1480年)8月には遂に合戦を始める。利藤は墨俣城を根拠に戦うが、同年11月には敗れて近江の六角氏のもとに亡命、更に京へ赴き幕府の庇護を受けた。
長享元年(1487年)5月、土岐成頼、斎藤利国(妙純)との和議が成立し、美濃国守護代職に返り咲く。
しかし、土岐成頼の後継を巡る争い(舟田合戦)で敗者となった土岐元頼、石丸利光に与したため、明応5年(1496年)6月、隠居させられ失意のうちに世を去った。法名玉堂宗珊居士。
なお、利藤の嫡男(源四郎、帯刀左衛門尉)は舟田合戦以前に早世し、嫡孫である斎藤利春(帯刀左衛門尉)は舟田合戦で石丸利光に迎えられたものの、風邪のため明応4年(1495年)6月6日に没している。 また、利藤の末子毘沙童も利春没後に石丸方に迎えられたが、敗戦時幼少(13歳)のため助命され、仏門に入り日運と名乗った。永正13年(1516年)に岐阜市常在寺の住職となっている。
実子の外に養子と思われる斎藤利為がいるが、舟田合戦では勝者となった斎藤利国(妙純)に味方しているので、利藤没後にその名跡を継ぐよう命ぜられたものだろう。