斎藤彦四郎
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斎藤 彦四郎(さいとう ひこしろう、生没年不詳)は室町時代の武将である。斎藤氏持是院家2代目の斎藤妙純の三男。
妙純の次男斎藤又四郎が明応8年(1499年)に没すると、持是院家当主となる。永正3年(1506年)に足利義澄から出された御内書の宛先も「斎藤彦四郎とのへ」であり、美濃国守護代になっていることがわかる。
永正9年(1512年)、守護土岐政房と対立し一旦尾張へ逃れ、織田氏の援助を得て再び美濃に戻り、墨俣城に籠城した。しかし、土岐政房、斎藤大黒丸の軍勢に敗れ、8月23、24日頃に再度尾張へ亡命した。
永正14年(1517年)、美濃では政房の後継をめぐって対立が起こり、12月27日には遂に合戦となった。斎藤利良は嫡男土岐頼武を、政房は次男土岐頼芸を推して戦ったが、この時は頼武派が勝利した。この合戦後、彦四郎は頼芸派と密かに連絡を取り、永正15年(1518年)8月10日、再び合戦が起きた。その結果、勝利した彦四郎は美濃に再び入国し、土岐頼武は斎藤利良とともに越前の朝倉氏のもとへ亡命した。
永正16年(1519年)6月16日に土岐政房が没し、美濃守護職が空位となると、朝倉孝景(宗淳)は弟である朝倉景高に美濃出陣を命じ、景高は頼武・利良とともに3000の兵で美濃に侵攻、連戦連勝して頼武の守護就任を実現させた。この頃、彦四郎は失脚、または戦死したと思われる。