新港郷
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台湾省嘉義県新港郷 | |
地理 | |
位置 | 東経---°--" 北緯--°--" |
面積 | 66.05km² |
人口 | |
戸口(2006年6月) | 9,914戸 |
人口(2006年6月) | 35,766人 |
政治 | |
行政区分 | 郷 |
郷長 | 邱晋煌 |
地方自治機関 | 新港郷民代表会 |
下部行政区画 | 23村380鄰 |
その他 | |
郵便番号 | 607 |
市外局番 | 05 |
郷花 | - |
郷鳥 | - |
郷木 | - |
別称 | 新南港 |
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新港郷(しんこうきょう、Xingang、シンガン)は、台湾嘉義県に位置する郷である。
目次 |
[編集] 地理
大埔郷は嘉義県の北西端に位置し、東は民雄郷及び渓口郷と、西と北は北港渓を隔てて雲林県北港鎮及び元長郷と、南は朴子渓を得立て太保市とそれぞれ接している。嘉南平原北部に位置し、北港渓と朴子渓により南北を挟まれた地勢は平坦である。
[編集] 歴史
新港は旧名を「新南港」と称した。集落形成初期は「笨港」地区の一部分とされていた。当時は原住民である平埔族の活動地域であったが、1621年、海賊の顔思斉が民衆を引き連れて上陸し「笨港十寨」を設置し漳州及び泉州からの入植を募るようになり開発が進み、康熙年間には既に街区が形成され、重要な港湾として発達していた。
1750年、笨港渓(現在の北港渓)で大洪水が発生し、それまで一つの地域であった笨港が「笨港北街」(笨北港)と「笨港南街」(笨南港)に分割された。1782年、漳州系住民と泉州系住民の衝突が発生すると、泉州人は笨南港を攻撃、それに加え林爽文事件と笨港渓の洪水が重なり笨南港の住民は東南の麻園寮に移住し「新南港」という集落を形成した。ここで笨港の歴史文化を継承し、今日の新港発展の基礎を築いた。なお清末には「新港」と改称され現在の地名が誕生している。
1920年、台湾の地方改制が行なわれると、台湾総督府により台湾中で散見される「新港」という地名の重複問題を考慮し、また新港が河港より距離があることから「新巷庄」と改称し、台南州嘉義郡の管轄とした。光復後は「新港」の名称が復活し台南県新港郷が設置された。1950年に嘉義県新港郷と改編されて現在に至っている。
[編集] 経済
[編集] 行政区
宮前村 宮後村 大興村 福徳村 古民村
中庄村 大潭村 西庄村 月眉村 月潭村
渓北村 菜公村 中洋村 三間村 安和村
潭大村 南港村 板頭村 共和村 埤子村
南崙村 北崙村 海瀛村
[編集] 歴代郷長
代 | 氏名 | 任期 |
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[編集] 教育
区分 | 数 | 名称 |
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大学 | 0 | - |
技学 | 0 | - |
高中 | 1 | 国立新港芸術高級中学 |
高職 | 0 | - |
国中 | 1 | 嘉義県立新港国民中学 |
国小 | - | - |
[編集] 交通
種別 | 路線名称 | その他 |
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[編集] 観光
- 新港奉天宮
- 大興宮
- 六興宮
- 水仙宮
- 登雲書院遺址
- 新港鉄路公園
- 光天宮
- 王得禄墓園
- 南壇水月庵
- 長天宮