日柳燕石
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日柳燕石(くさなぎえんせき)は讃岐仲多度郡榎井村字旗岡の出身。文化14年3月14日~明治元年8月25日(1817-1868)。幼名長次郎のち耕吉、名は政章、字は士煥、号は燕石、別号柳東・春園・白堂・楽王・呑象樓・双龍閣。
幕末の志士。父は、加島屋惣兵衛といい、質商幼少時代から気鋭く、伯父の石崎近潔に学び、長じて13歳で琴平の医・三井雪航に学んだ。三井雪航や岩村南里に経史詩文、奈良松荘に国学歌学を学び、阿野鉄兜や森田節斉らと交遊した。詩文に天賦の才を持ち書画をよくした。当時の榎井村は幕府直轄地の天領で、豪商・豪農が軒を並べており、その財力や文化程度は高く、又となりの金毘羅の街には、江戸、上方をはじめ全国各地から金毘羅宮に参詣客が訪れてくるため、当時最先端の情報が集まっていた。そのような環境の下、加島家という豪農で育った燕石は、幼いときから儒学の勉強に励み、14歳頃までには「四書五経(ししょごきょう)」を読破した。
反面、侠気をもって知られ、21才で父母に死別したのちに家督を相続して33才頃まで遊興したことで、千人を超える郷党浮浪の徒たちの首領となり、博徒の親分としても知られていた。又、勤王の志が非常に厚く、天下の志士と交わり国事のために私財を投げ出して尽力した。文久末年頃より長土諸藩の志士で幕吏の追跡を受けて彼の家に潜匿するものが多く、よくこれらの志士を庇護していたが、慶応元年に高杉晋作が幕吏に追われて榎井に燕石を頼って亡命したのをかくまい逃亡させたことから、高杉を潜匿した嫌疑を受けて、身代りに4年のあいだ高松の獄に幽せられた。慶応4年正月20日出獄し明治元年赦免の朝命に接して京都に上って書を奉った。朝廷は召して御盃を賜って燕石を桂小五郎(木戸孝允)と共に西国地方に周旋させた。その後、仁和寺宮嘉彰親王が会津征討越後口総督として出征する際に、史官に任じられて軍務方記録を掌り、北陸に従軍したが四年間の投獄がもとで従軍中不幸にも越後柏崎で病没した。52歳であった。墓は新潟県柏崎市小学校西側の柏崎招魂所に立てられたが、爪髪は香川県仲多度郡琴平町榎井の先祖の墓所に日柳燕石士煥の墓として立てられている。
燕石と交友があった志士の中には、長州の桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊介、土佐の中岡慎太郎や越後の長谷川正傑らがいたと言われる。燕石の別宅は、その二階で酒を呑むと、盃に金毘羅宮がある象頭山がポッカリと浮かぶところから、“象頭山を呑む”意気を示す「呑象楼(どんぞうろう)」と名づけられた。呑象楼は興泉寺の前にあったが、現在は榎井小学校北西に移築されている。
著書には「呑象樓遺稿」「西遊詩草」「旅の恥かき捨ての日記」や、獄中で著した「皇国千字文」「娑婆歌三関」などがある。
高杉を匿い出獄をした際の歌 「いせ海老の腰はしばらくかがめて居れど、やがて錦の鎧着る」