日根野弘就
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日根野 弘就(ひねの ひろなり、1518年(永正15年) - 1602年(慶長7年))は、戦国時代の武将。備中守。日根野高吉、日根野吉時、日根野弘勝らの父。
日根野氏は和泉日根(または日根野)の地を発祥とする一族。藤原姓を称す。弘就の父(盛就?)の代に一部の一族が美濃に移住した。
はじめ美濃の戦国大名・斎藤道三、その死後は斎藤義龍、そして斎藤龍興に仕えた。斎藤氏の家臣団の中では、美濃三人衆に次ぐ有力家臣(斎藤六宿老)で、道三の子二人を義龍の命で殺害した実行犯は弘就といわれる。また、龍興には特に寵愛されたという。織田信長が美濃に侵攻して来るようになると、これと懸命に戦ったが敗れて斎藤氏が滅亡した後は、一時龍興とともに伊勢長島に拠ったが、やがて今川氏、そして浅井氏に仕え、1573年から信長の家臣となった。
信長の死後は羽柴秀吉に仕え、1584年の小牧・長久手の戦いに参戦する。その後、故あって秀吉の怒りを買い、追放されたが、1590年に帰参を許され、尾張や三河に1万6000石の所領を与えられ、秀吉の死の際にも特に招かれて秀頼への忠誠を誓っている。のち、高野山に出家した。1602年没。死因は自害であったともいわれる。
鎧や兜を多く自作し、特に「日根野型」の兜は実戦向きであるとして重宝された。