ノート:月の岬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
[編集] 画像の列挙
画像が49枚もありますが、これだけ列挙する必要があるのでしょうか。幾らなんでも過剰すぎるのではないかと思います。坂や施設などはそれぞれ各地区1~3程度に絞って記載した方が良いのではないでしょうか。今の状態はWikipedia:ウィキペディアは何でないかに少々反すると思います。--↑PON(ウエポン) 2006年12月8日 (金) 13:44 (UTC)
ご指摘ありがとう御座いました。
ノートにも記しましたが、「月の岬」は地域的にも範囲が広く、記載事項が多く紙幅の関係上全てを記すことは出来ません。従いまして本ページは目次的な性格のものとして、リンクと小さな画像を設定し、リンク先に詳細な説明を行っております。従って、多少写真は多くなりますが、写真のイメージを見てリンク先を辿る便宜を考え、このようにアップさせていただいております。ご事情理解の程お願い申し上げます。Tokyo Watcher 2006年12月8日 (金) 23:31 (UTC)
[編集] 月の岬の名称
- 月の岬についてざっと調べてみましたが、旧三田台一丁目(現在の三田4丁目の一部)あたりを指した地名であり、現項目で書かれている「台地全体」といった広い範囲を指すものではありませんでした。また江戸時代中期から明治初期まではそう呼ばれているとする文献はありましたが、明治34・35年及び同40年の文献では過去形となっており、この頃既に廃れていた俗称のようです。
- 従って定義を変更するとともに、少なくともこの地域に関係ないリンクは削除するのが適切でしょう。--Excavator 2007年2月16日 (金) 13:23 (UTC)
以前、私が貴兄が私の記述を書き換えたことを指摘してから、その後私が記した英語のページまで追っかけてこられて一つ一つ茶々を入れられておられる御様子で[1]..........まあいいでしょう。
本文に明記したようにこれは現在の地域名称ではありませんが、歴史的に広く用いられ、現在でもマンションの宣伝に「月の岬」の語が用いられていることから分かるように地元住民に認知されています。月の岬の名称は台地上に存在する教育機関の校歌にも詠われています。確かに古地図から居表示に限っては江戸時代に「月の岬」を示す番地は三田四丁目10番地に相当されますがこのことは一般に江戸の場合武家地には町名は振られず、町人地に相当する町名を振り当て、周辺をその町名で呼ぶという慣習に依っているとするのが妥当でしょう。謂れにも記しましたように、その命名が月を愛でるに適している台地という意味から来ており、一連の台地は高輪まで続いており、これを部分的にここまでが「月の岬」であり、他の部分をそうでないと峻別することは不自然に感じられます。歌川広重の作品にも品川宿の辺りの描写をはっきりと「月の岬」として記述してあります。 これらのことから台地全体を「月の岬」と解するのが歴史的にも不自然さがないと考えますTokyo Watcher
- わたしが茶々を入れているのかどうかは、わたしの編集内容をみていただければわかっていただけるものと考えます。
- さて、Tokyo Watcherさんの記述を読ませていただきますと、残念ながら文献にあたられておられないように見受けられます。例えば文政11年(1827年)の文政町方書上に三田台一丁目の地誌御調書上帳があります。ここでは「同町内の御高札場所近辺を月の見崎と呼ぶ」と明記してあり、同町全体ではなくさらにその一部を指すだけであることは明白でしょう。Tokyo Watcherさんが歴史的に広くと仰るのがいつからを指すのかは存じませんが、調べた範囲では明和9年(1772年)の江戸砂子温故名跡誌が初出であり、明治34年(1901年)の新撰東京名所図会では既に過去形で紹介されています。歌川広重の作品で描かれている、月の岬から見える場所がすべて月の岬と呼んでよいわけではありません。
- 以前Tokyo Watcherさんの会話ページでお願いしたとおり、Tokyo Watcherさんのお考えではなくWikipedia:検証可能性を満たす資料を示していただけましたら幸いです。--Excavator 2007年2月16日 (金) 15:51 (UTC)
私は人間関係においてそのような粘着性を持ち合わせておりませんので、あなたのパーソナリティを理解できず、もし失礼にお感じになられたらお許し下さい。
記述された「歌川広重の作品で描かれている、月の岬から見える場所がすべて月の岬と呼んでよいわけではありません」につきましては広重が、現在の品川(この地は明らかに貴兄の示す「月の岬」とは異なる場所)を描写したのにその名称として「月の岬」を用いたとする事実を紹介しております。江戸時代の代表的な風景画家が、ある地名を特定の呼称で描写し、それが数百年経過して広く社会に受け入れられていることは歴史的事実として重視して良いことと思います。
「月の岬」が歴史的に継承継続されている慣習的地域名称である以上、厳格な区別はあまり意味がないと思います。 ただし貴兄の指摘も尊重し貴兄が示された指摘と資料を併記させていただきました。Tokyo Watcher
- Wikipedia:検証可能性を理解しておられないようですね。Tokyo Watcherさんが主張されているような広い範囲を指すとする文献はありませんでしたと申しております。歌川広重の月の岬は月の岬から見た単なる風景画ですね。この見える範囲がすべて月の岬の定義であると主張されるのでしょうか。
- なお誰でも確認できますが、角川の地名辞典でもきちんと地域限定で紹介していることを指摘させていただきます。Tokyo Watcherさんが検証可能な資料を示されない限り、台地すべてを月の岬であるとするお考えを併記する理由はありません。--Excavator 2007年2月17日 (土) 00:22 (UTC)
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- 私は地元民ですがあまりこういう言い方は聞いたことがないですね。確かに坂の上のマンションの宣伝には使われていたことは記憶していますが、それは宣伝に打って付けだからであって、広く認知されているとは言い難いように感じます。月の岬の指す範囲ですが、『出典を示す責任は掲載を希望する側に』というのが公式な方針(必ず従わなくてはいけない方針)ですから、それが示せない以上、台地全てを指すとは記すことは方針に違反しており、修正するべきだと存じます。--↑PON(ウエポン) 2007年2月17日 (土) 03:44 (UTC)
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- コメントありがとうございます。港区立三田図書館刊の『近代沿革図集 芝・三田・芝浦』に、月の岬に関する文献がまとまっていますので、もしよろしければご確認ください。ここで記載の文献の中で一番広い地域を指すものでも、三田台町一丁目から伊皿子町までとなっていることがわかるかと思います。--Excavator 2007年2月17日 (土) 12:26 (UTC)
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広重の「月の岬」が描いている先は海上で、もちろんそこが「月の岬」ではありません。広重が郭より陸側を描きその先に、現在の三田四丁目辺りが描かれているならば、月の岬は同地に限定されるという一つの証拠が示され、Excavatorさんの「月の岬」は聖坂上の一地域に限定されているという主張を裏付ける資料となります。アングルから考えてこの絵は広重が描画のときに自身がいた地域を「月の岬」として認知していいたと考えるが自然であるように思います。すなわち、広重が自身が位置している品川宿を「月の岬」として認識しているという事実を示したということです。Tokyo Watcher
- 安藤広重の絵のどこに品川が描かれているのかと思ったのですが、実際に絵を描いた場所を思い描いてられたのですね。描いた場所は、実は北品川駅そばの土蔵相模と推定されているようですから、Tokyo Watcherさんのお考えの台地上からも外れているのではないでしょうか。創作物ではない資料はすべて一地域を指していますから、角川の地名辞典のとおりに解釈するのが妥当でしょう。--Excavator 2007年2月17日 (土) 08:11 (UTC)
私はそれが土蔵相模であると特定化して理解してはいません。(そうであるならば、アングル上に木とか他の家屋が描写されて然りですがそうなっていません。高台にあるどこかの場所から捉えた構図とするのが適切でしょうが)ただ浮世絵ですからスケッチの正確性を問題とするのはあまり意味はないでしょう。問題としているのは公的な地名の規定ではなく文化的に共有されていた地域の範囲の理解であり、当時の知識人である広重が、月の岬のカテゴリーを広範に解釈していたと理解することを申し上げたものです。本文にもExcavatorさんの御意見も採用し多様な解釈が成り立つ旨記しておきましたよ。Tokyo Watcher
- 品川宿まで月の岬が包含するというご主張は理解しました。ただそれは、自由な発想が可能な創作物をもとにTokyo Watcherさんが解釈された結果ですね。繰り返しになりますが、ご主張を裏付ける検証可能な資料を出していただけますようお願いします。三田図書館が収集した文献リストの中でも品川宿はおろか台地全体が月の岬であると書いたものはありません。もし台地全体が月の岬であるとする文献があるなら、同図書館に喜んで受け入れられるでしょう。もし文献が存在しないのであればWikipedia:独自の調査のポリシーに反しますので、Wikipediaではなく他のメディアで発表されるのが適切です。--Excavator 2007年2月17日 (土) 09:11 (UTC)
[編集] 修正の方針について
月の岬が台地全体を示す言葉であったとの検証可能な資料が得られませんでしたので、Wikipedia:検証可能性が満たされるよう変更しようと思います。まずは、「月の岬」とは限られた地域であったことを明示するとともに、その地域から外れるリンクを削除しようと考えます。なお、編集に先立ち、Wikipedia:検証可能性より一部を引用させていただきます:『編集者はこれら三つの方針を併せて理解するよう努めてください。この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません。』--Excavator 2007年2月21日 (水) 14:18 (UTC)
- 冒頭部だけ矛盾しないよう修正しましたが、その他の大部分も改稿する必要があるように思います。また、地元に慣れ親しむ方がいるという部分の脚注にマンションの宣伝にも使われたとの記述がありましたが、全国展開をしている大手企業による宣伝ですから(地元業者というならわかりますが)、それをもって慣れ親しまれているとするには少し無理があります。よって、脚注部分についてはコメントアウトにしておきました。--↑PON(ウエポン) 2007年3月31日 (土) 12:55 (UTC)
- 修正・コメントありがとうございます。ご指摘の通り大幅改稿が必要だとわたしも認識しています。ただ、既存の記事分量が多く、どこから手をつけようか、、と迷っているところです。Excavatorとしては、明治初期の頃までしか使われなかった地名のため、まず、それ以降の時代的につながりのない記述は全て削ってしまうと分量が大きく削減でき、編集が進めやすくなるのではと考えております。ご意見等いただけましたら幸いです。--Excavator 2007年3月31日 (土) 13:11 (UTC)