本多俊政
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本多 俊政(ほんだ としまさ)は、戦国時代の武将、江戸時代前期の大名。大和高取藩の初代藩主。
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時代 | 安土桃山時代から江戸時代前期 | |||
生誕 | 天文20年(1551年) | |||
死没 | 慶長15年閏2月8日(1610年4月1日) | |||
別名 | 半右衛門(通称)、正武、俊正、利朝(別名) | |||
戒名 | 利生院殿秀阿春大禅定門 | |||
官位 | 従五位下、因幡守 | |||
藩 | 大和高取藩主 | |||
氏族 | 尾張本多氏 | |||
父母 | 父:本多利久 | |||
妻 | 正室:尾藤氏 | |||
子 | 本多政武、娘(九鬼良隆室) 娘(内藤信充室) |
天文20年(1551年)、本多利久の子として生まれる。
父と共に豊臣秀長、その死後は豊臣秀保に仕え、文禄4年(1595年)に秀保が死去すると、豊臣秀吉の家臣となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのとき、東軍に与して会津征伐に従ったため、居城である高取城は西軍に攻められたが、城主の俊政がいなかったにも関わらず、家臣だけで守りきったために城は遂に落ちなかった。このため戦後、所領を安堵されて高取藩の藩主となった。
慶長15年(1610年)閏2月8日に死去。享年60。後を子の本多政武が継いだ。
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