本多忠烈
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本多忠烈(ほんだ ただつら、正徳7年(1716年) - 享保8年11月27日(1723年12月24日))は、大和郡山藩の第5代藩主。父は第3代藩主・本多忠直。母は石井氏。
1716年、郡山で生まれる。幼名は喜十郎。1722年、兄で先代藩主の本多忠村の死去により後を継いだ。しかし幼少であることを理由に、所領を5万石にまで減らされた。このため、家臣団280人(306人とも)のリストラが行なわれている。また、屋敷などの大々的な取り壊しも行なわれた。1723年11月27日、江戸で死去。享年8。継嗣が無く、郡山藩の本多氏は断絶し、改易となった。墓所:東京都文京区湯島の麟祥院。
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