ノート:杉原千畝
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[編集] 情報源
あとでこじれそうな部分(免官のいきさつ)について、念のため情報元を記載しました。杉原側は妻の幸子夫人が情報元です。外務省の主張については国会答弁以外にソースが見つからなかったのでこれを記載しました。渡辺外務大臣の答弁の中には年金とかの話は出てこないようなので、情報源が分かる方がいましたら加筆をお願いします。Modeha 00:20 2004年3月19日 (UTC)
- 年金とかの話は参考文献に挙げてある『意外な解放者』に出ています。外部リンクの二番目の方にその部分の引用があるのでご覧ください。この本については写真のキャプションが間違いだらけだと夫人との共著書もある渡辺勝正氏が『真相・杉原ビザ』という本で激しく攻撃しているのですが、当該部分に関しては言及が無く、黙認した形になっています。また、夫人自身も退職金をちゃんともらっていたことについては著作の中で述べています。以上のことから、『意外な解放者』の当該部分は一応正しいものと考えています。
- みんな忘れていますが、杉原さんはいわゆるノンキャリアで、学歴からすると異例の出世振りなのです。もちろんリストラ対象になったのに例の件が不利に働いた可能性も否定はできませんが、例の件がなくても大リストラの対象になっていた可能性はかなり高いものと思われます。
- 自伝というのは、あんまり信用しすぎない方が良いというのは、歴史学の常識です。『福翁自伝』や手塚治虫の自伝でさえ、事実と異なる部分があるほどなんですから。偏重せずに周辺資料と比べながら後付して行く必要があります。
- 自分が自伝を書くことを考えれば、ある程度はお解りいただけるかとは思いますが、たとえば今回の件で言えば、夫人の手記では自分が後妻であったことへの言及がありませんが、中日新聞の本ではちゃんとそのことにも一応ふれています。
- お手数ですが、以上の資料に基づいて再度書き直してはいただけませんでしょうか。そうでなければ元にもどしていただけるとありがたいです。夫人をあまり傷つけたくはないので。 Kadzuwo 00:59 2004年3月19日 (UTC)
ええと、そうではなくて、「外務省によれば」という書き方は、外務省がいつどのような形でそういう発表(あるいは当事者への通告)をしたのか?というのがよくわからないので攻撃の対象にされやすいのではないか、という意味です。「『意外な解放者』によれば、年金も退職金も~」という書き方になれば、そういう攻撃から記事を守れると思います。ただし私は該当する書籍を読んでいませんので、そういう改変はできません。どなたか読まれた方が書き加えていただけるとありがたいです。Modeha 02:24 2004年3月19日 (UTC)
- それは当然、『意外な解放者』の当該章の筆者である篠輝久氏の問い合わせに対する回答だったと考えるのが自然でしょうね。いずれにしろ疑問を持たれた方はこのノートのページをご覧いただくこともできるので、取り敢えず当該箇所は元に戻しておきました。また、未亡人の著書は、上記の理由から、やはり省いてあります m(_ _)m。Kadzuwo 13:44 2004年3月19日 (UTC)
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- Kadzuwoさん、ノートで結論も出ないままに「ノートでの議論に基づいて」などとリバートするのは余りにも不誠実ではありませんか?Sampo 13:58 2004年3月19日 (UTC)
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- 良くお読みください。自分は Modehaさんに書き改めていただくか元に戻すことをお願いしました。それに対して書き改めることはできないとのお返事でしたので、二者択一のもう一方を実行したのです。論理的ですよね? Kadzuwo 17:19 2004年3月19日 (UTC)
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- 私は「根拠を提示」して頂きたいとは申しましたが、revertしていただきたいとは申し上げてはいません。また、「書き改めるか元に戻す」ことのどちらにも同意いたしません。Modeha 17:25 2004年3月19日 (UTC)
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- いきなり入ってきて難なのですが、私個人の意見では杉原の外務省解任はビザの件を口実したものと考えるのが妥当と思われます。戦後の外務大臣は吉田茂・芦田均と言った戦時中は不遇だった外交官出身の大臣の時代が続いた(ちなみに芦田は早々と代議士に転身した)ためにかなり恣意的な人事が横行したと言われています。杉原の解任は芦田外相下の6月となっておりますが、帰国したのが4月ですから所謂「Y項パージ」の一環だった可能性があると思います。Y項のYは勿論総理兼外相の吉田茂の略ですが、吉田の人事の無茶苦茶ぶりは多くの外交官の回想録や吉田茂の評伝にも書かれています(例えば、空襲で家を焼かれたある外交官がGHQの幹部が開いたパーティでパーティのTPOにあったネクタイが用意できなかったところ、吉田から「外交官失格」の烙印を押されて外務省を解任されたと言う話がある。また、東京裁判での外務省系の被告に対する弁護活動を吉田が意図的に妨害したのではないかと言う疑惑すら持たれている(後に外務省の幹部などを歴任した大野勝巳の回想録にもそうしたエピソードがある)。そういう時期の話ですから、アジア・英米畑の吉田とは縁がなく(逆にロシア・東欧畑と言われている広田弘毅や東郷茂徳が戦犯となったために杉原を擁護出来ると思われる大物が外務省からいなくなってしまった)、逆に政府の命に反してビザを発給するような人物は吉田からは「自分の意にならない人間=外務省にふさわしくない人間」と言うことで処分を検討させた可能性が強いと私は見ています。--220.211.248.97 2005年10月12日 (水) 03:37 (UTC)
杉原ビザを考察するにあたり杉原の主任務である情報収集活動面からの検討を行わないのは片手落ちと思われます。明大教授の阪東宏著「日本のユダヤ政策」「世界のなかの日本・ポーランド関係」に提示されてるポーランド側の資料から、1940年当時、杉原がポーランド情報部の地下組織への窓口であったことは明らかにされてます。また、杉原は外務省よりも参謀本部とのつながりが深く、カウナス以後のプラハ,ケーニヒスブルグ、ブカレストへの着任も大島中将の意向が反映されています。 杉原の退職については外交官というより武官の色合いが強かった47才の杉原に、50才定年の 外務省に引き止めてくれるような後ろ盾が無かったと見るのが妥当であると推察します。 {利用者 バルファティック}
[編集] revertの理由
「篠輝久氏の問い合わせに対する回答だった」という根拠を、記事内に提示してください。この記事は海外版Wikipediaからも参照されており、信頼しうる唯一の該当国の記事として参照される可能性が極めて高いと考えます。誤った内容が全世界に広まることのないよう、ぜひとも記述に関する根拠を提示してください。提示していただければ、この記事に関する不要な攻撃が防げると確信いたします。
杉原氏が満州国や上海のビザを発給したという確証が得られなかったため、該当部分も含めてrevertいたしました。もし、杉原氏が満州国領事を兼任していたり、満州国のビザを発給したという事実がありましたら、根拠も含めて記事内に掲載していただけるとありがたいです。Modeha 16:55 2004年3月19日 (UTC)
- 日本語をちゃんと読んでくださいよ~。「通過ビザ」だってハッキリ書いてあるじゃないですか。それにその後の彼らの行く末については、いろんなところに出ているじゃないですか。そこでいわゆる杉原ビザを拒否した日本の関係機関は一つもなかったと言われているのも有名ですよね。Kadzuwo 17:45 2004年3月19日 (UTC)
- 杉原が発給した通過ビザは、日本国を通過するためのビザです。当時、日本は満州国を独立国とみなしていましたので、満州国を通過するためには日本のビザのほか、満州国のビザが別途必要になります。(もちろん、諸外国が満州国を承認しなかった、というのは別の問題です)杉原が「満州国」のビザを発給し、そのビザを元に満州国に長期滞在した、という事実は寡聞にして知りません。杉原が満州国のビザを発給したのなら、本記事内にそう記載すべきであるし、発給していないのなら、杉原のビザとは直接は関係ないが、という付記をつけるのが当然であると考えます。
これ以外では、02:41 2004年3月20日 . . Kadzuwo の版の「杉原千畝」に意義を申し立てる部分はありません。Modeha 17:56 2004年3月19日 (UTC)
訂正。意義ではなく、異議です。Modeha 17:58 2004年3月19日 (UTC)
さらに追記。国によっては、入国にビザが必要ない国(バチカン市国など)や、隣接国が1つしかなく、隣接国のビザをもって自国の入国ビザにかえる国もあります。ただ、満州国の項目を見ても、それらしいはっきりとした記述はありません。日本国(当時の国号大日本帝国)のビザをもって満州国の入国を許可するような特別の制度があった可能性は排除できませんが、いずれにしても記事内にその旨付記する必要があると考えます。Modeha 18:14 2004年3月19日 (UTC)
- それではあんまり煩瑣になるので、段落を分けてみました。杉原さん以外にも彼らに同情的な人々がいたからこそ、彼の行動が生きたのだというニュアンスがうまく出てくれていると良いのですが。
- ところで、呼び捨ては訂正されないんですか? (^^;) Kadzuwo 18:20 2004年3月19日 (UTC)
- 百科事典内では敬称は省略するのが慣例とされます。また、杉原が満州国領事や大使を兼任していたという事実が確認できないことから、該当部分を書き換えいたします。何度も書きますが、杉原が満州国の通過ビザを発給した、あるいは、当時、日本の通過ビザで満州国を通過できた、という事実がありましたら、根拠も含めて記事内に掲載してください。Modeha 18:29 2004年3月19日 (UTC)
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- 百科事典本文内では、ですね。謝辞とかでは敬称を略さないこともありますよ。
- もともと「杉原が満州国の通過ビザを発給した、あるいは、当時、日本の通過ビザで満州国を通過できた」なんて誰も言ってないわけで。
- では、あなたは当該部分を「諸国」と書き直しているけれども、「諸国」に関する同様の根拠があるというわけですね? それってどんなんかな~? (^^) Kadzuwo 18:38 2004年3月19日 (UTC)
指摘を受けて該当部分を削除いたしました。指摘をして頂いたのはKadzuwo氏でありますので、根拠のない限り、該当部分を復活させないでください。また、献辞で敢えて敬称をつけないこともあります。その上、Wikipediaでは献辞は推奨されておりません。何度も書きますが、何ゆえに日本の通過ビザで満州国に滞在できるのか、根拠を提示してください。私が根拠にこだわる理由は、「日本の通過ビザで日本に滞在した」というのはごく当然であり、ビザの発給が明らかであれば根拠を提示する必要はない、と考えられるのに対し、「日本の通過ビザで満州国に滞在した」というのは明らかに不合理で、それにはビザの発給以外に理由が必要だと考えるためです。Modeha 19:04 2004年3月19日 (UTC)
- 「敢えて」敬称を付けなかったのだと解釈してよろしいのですね?
- ここは謝辞ではないのも、周知のはずですが? ただ、本文ではない例として謝辞を挙げただけだということは理解しておられます?
- あなたが改ざんする前の文章をもう一度お読みになることをお奨めします。単に杉原ビザを受け取った人たちが、後に満州や上海に行ったという事実が述べられているだけですよね。その事実はお認めになるのでしょう? ならば、何も削除することはないはずです。
- なんだか寅さんを説得しているタコ社長のような気分になってきました (^^;;)。
- 今日も仕事があるのでもう寝ますね。ではまた (って、もういいよという気分ですが)。Kadzuwo 21:00 2004年3月19日 (UTC)
敬称について誤解があるようです。たとえば私は、フローレンス・ナイチンゲールの初版を執筆しましたが、かりにノートで論議になった場合でも、「ナイチンゲールさんの著書によれば」などと記載することはありません。ただし、論議の相手には当然敬称をつけさせていただきます。敬称の問題は内容には直接関係ないようなので以後言及しません。満州国と上海に向かったユダヤ人がいたことは否定しませんが、Kadzuwo氏の文章では、その他の国(アメリカ合衆国)などに向かったユダヤ人がいたことが明記されておりませんので、それを含めた上で諸国という表記をいたしました。ただしその表現は問題があるということでしたので削除したまでです。問題があるという指摘をしておいて、その部分を削除すると改ざんと主張するKadzuwo氏のほうが日本語をよく読む必要があると考えます。
また、満州国や上海に向かった者がいることは否定しませんが、それを記載しただけでは、何故、杉原の日本通過ビザだけで満州や上海に行くことができたのか、読者が理解することができません。Kadzuwo氏はご自分の文章が日本語でどのような意味になるのか分かっていらっしゃらないようです。杉原ビザが日本で無効とされたことはない、それは事実でしょう。しかし、ビザが有効であるということと、そのビザで満州国に入国できたか、というのは別の問題です。あなたの文章では、杉原ビザ「だけ」で満州国や上海に行くことができたという意味になります。もちろん本当にそうだったのかもしれませんが、それなら、「杉原のビザで満州国に入国できた」と記載すべきです。杉原ビザを持っていたおかげで、満州行きのビザを取得することができたのなら、「杉原ビザに続いて満州国の滞在ビザを取得し」と付記する必要があるでしょう。
03:17 2004年3月20日 . . Kadzuwo の版(日本時間)の問題点を以下に列挙します。上記と重なる部分が多いですが、おわかりにならないようなので念のために提示します。
(1) 杉原ビザのみで満州国や上海に入国できたと読み取れる。 (2) 最大の脱出先であるはずのアメリカ合衆国の名がない。
Modeha 01:09 2004年3月20日 (UTC)
4月13日に追加されたかたへ
- 入国拒否に遭ったユダヤ人が再びリトアニアに送還されたのか、あるいはなし崩し的に日本に入国したのか。それとも中国やロシアに留まったのか。結果的に迫害から逃れることができたのか。
- 入国を遂げた大多数のユダヤ人の存在をどう捉えるのか。
- 滞在期間の延長がいくら地方の警察署の管轄だとしても戦時統制下で厳しい監視の目を逃れることは容易なことであったのか。中央官庁も半ば黙認の姿勢だったのではないか。
これらの疑問点について明らかにしていただけると追加しやすいと思います。--Nul 15:41 2004年4月13日 (UTC)
該当部分を書いた本人ではありませんが。
入国拒否されたユダヤ人については、ウラジオストックの日本領事の働きによって結局、入国が許された者もいるようです(実数はわかりません、また、最終的に拒否された者がいたのかも私は知りません)。
ほとんどの杉原ビザは、10日間の通過ビザで(当時杉原の独断で出せるビザはこれしかなかったようです)したが、当時の日本は、正規の日本通過ビザを持っていれば、日本国内でビザの延長や期間の長い種類のビザへの切り替えができたようです。神戸のユダヤ人組織が保証人(?)のような形になってビザ切り替えが認められた。もちろんそれには日本人や神戸のユダヤ人組織の援助があった、という話ですが、記事にそこまで書ききれるほどきちんと調べてないので私は書いてません。Modeha 00:29 2004年4月14日 (UTC)
入国拒否にあったユダヤ人の再入国については、「自由への逃走」(中日新聞社会部)に神戸ユダヤ人協会が奔走したことが記述されています。杉原ビザによって救われたユダヤ人の存命者を探してインタビューして回った本なので、信憑性はかなり高いでしょう。駐日オランダ大使館に協力してもらってキュラソー・ビザを発行してもらい入国にこぎ着けたそうです(72人)。
ウラジオストックで総領事代理をしていた根井三郎氏がハルピン学院で杉原氏の同窓生で旧知の間柄だったことも書かれています。通過特許を入国特許に書き換えた話は「真相 杉原ビザ」(渡辺勝正)にスタンプ印と一緒に出ています。こちらには、根井三郎氏が文句を付けてきた外務省を官僚の形式主義を逆手にとって上手く言いくるめたことが書かれています。
滞在期限の切れたユダヤ人達はビザの要らない上海に移っていったようです。そのうち上海にもユダヤ人ゲットーが設けられ、苦労したことを「自由への逃走」のなかで存命者の方が語っています。Poppy 15:58 2004年4月17日 (UTC)
[編集] 外務省ユダヤ難民取り扱い規則について情報提供求依頼
この杉原千畝の記事からのみリンクされている「外務省ユダヤ難民取り扱い規則」ですが、現在その文書の実在を確認できていません。こちらでもし文書の出典や外務省の文書番号など判る方がおられましたら、「外務省ユダヤ難民取り扱い規則」の補完のため、情報の提供をお願いいたします。
61.210.35.122 02:05 2004年5月13日 (UTC)
[編集] ビザ発給の許可
「当時、日本政府はユダヤ人に対する中立的な政策を公式に取っていたとはいえ、通過ビザの発給を受けるためには十分な旅費を備えるなど規定の条件を満たすことを要求していた。これは外務省ユダヤ難民取り扱い規則により、表向きはユダヤ難民を他の難民と公平に扱う中立さを装いつつビザの発給資格を異常に高くすることでユダヤ難民を事実上締め出すことを狙っていたからである。 ユダヤ人難民のほとんどはこの受給資格を欠いていたため、千畝は本国外務省にお伺いを立てるが、発給は許可されない。」
ぱっとみた限りでどうして「事実上締め出すことを狙っていた」「発給資格を異常に高くする」といえるのかがわかりません。根拠(たとえば他の同様なビザ申請との条件の違い)なしにはこうした記述は穏当でないと考えます。また書籍にこうしたことが述べられているなら、それをこの記述の典拠として示す必要があるように思います。また http://www.myrtos.co.jp/magazine/200308/sugihara_chiune69.html のように、決してビザ発給は不当にユダヤ人に不利なものではなかった(このウェブページ/雑誌は比較的ユダヤ人に対して好意的なものです)とする意見もあります。--Aphaia 2005年8月11日 (木) 23:09 (UTC)
着の身着のまま逃げてきたユダヤ人に対し、渡航費用の確認などを要求する電文は、ユダヤ人を難民扱いしないようにして、日本国内への移入を防ぐ目的があったと考える研究者もいるようです。指摘の外部サイトの主張はあまり主流の考え方にはなっていないようです。杉原のビザを無効として国内への入国を認めるなという命令も出たようですし、この文の筆者はその事実を知らないかあるいは隠しています。官民あげてユダヤ人の脱出を助けたというのは、後付な上にかなり無理のある主張でしょう。それについては本文中に既に記載がありますので、わざわざ書き足す必要はあまり感じません。なお、命令を受けたウラジオストクの日本領事は、本物の日本領事が出した本物のビザを持つ人間を入国拒否することはできないし、もしそうすれば、全世界で日本の発行したビザが信用されなくなるという理由でこの命令に反論する電文を打ち、命令を無視しています。ついでに記載しておくと、杉原のビザ発給について、大量の人員輸送に困難があり、船会社が反対しているので出すなという電文もあるようです。これについても、指摘のサイトは知らないでいるのか、あえて表記しないでいるのかのどちらかです。2005年9月8日 (木) 15:02 (UTC)
- かつてこの問題を専門にしたことがある者です。
- 日本政府内におけるユダヤ人の取り扱い方針については、1938年前後から42年までの間に二転三転しており、日本政府の態度が固定したものであったと考えることに無理があります。むしろ、確固たる対処方針がなく、その時々の時勢や内部の勢力、実力者の考えなどによって転変したと考えた方が良いと思います。
- 特に在外公館と外務省本省との間の意見の齟齬が大きく、これは各公館との電文のやり取りからも確認できます。外務省としては別にユダヤ人に限らず避難民の受け容れには消極的でしたが、現地ではそんな事言っていられなかった様子が(杉原ではありませんが)38年頃から本省宛の電文に見て取れます(本省の指示は実施不能、などの意見が見られます)。
- その一方で、「八紘一宇」なるタテマエ上ユダヤ人避難民を名指しで排斥できない、という外務省本省の文章があるほか、ナチスドイツからのユダヤ人引き渡し請求を跳ねつけていることもまた事実ではあります。
- ここからは推測ですが、このような背景があって、在外公館では本省の指示を可能な限り拡大解釈して「現場の対処」を行い、外務省としてはそれを黙認まではいかないまでも見て見ぬふりをする、という関係が成立したのではないかと思われます。(キュラソー行き通過ビザの発給など)
- “結果として”少なくない数のユダヤ人が救われることになったが、別にそれはユダヤ人を救おうという積極的な意志が働いたものではなかった、というのが私の個人的見解です。
- 220.147.220.118 2005年10月11日 (火) 12:03 (UTC)
杉原は1940年春からポーランド情報部関係者に偽造ビザを発行しており、同情報部の要請により7月上旬の段階でポーランド人難民に対するビザ発行の準備はされていました。しかし実際に押し寄せたのはユダヤ難民であり(ポーランド人は結局15人のみ)、ここで杉原が自分の職権を拡大解釈し発行したのが杉原ビザだったと推察します。当時、杉原は諜報網も組織し、高い情報収集能力が評価されていたこと、ドイツはユダヤ人追放政策中で抗議の恐れが無かったことから、杉原の拡大解釈によるビザ発行の処罰は行われなかったと考えます。 {利用者 バルファティック} 2005年12月22日〈木)
[編集] 千畝の妻,幸子夫人の表現について
この記事の内の以下の部分について,失礼な意味合いを持つ部分があったので,直しました。 ・・・・これらについて当の外務省は1991年10月、外務省の鈴木宗男政務次官(当時)が幸子未亡人を招いて日本政府の対応について「謝罪」している。しかし・・・・・ と言う文。未亡人とは 夫と死別してもおめおめと生きている女と言う意味合いなので,失礼と思い,未亡人のところを寡婦にしました。 --利用者:Dra1dra 2007年1月3日 (水) 09:56 (UTC)
[編集] 岡崎勝男と勲五等瑞宝章について
1)千原が個人の裁量でかってにビザを発給したことで外務省を追放されたことになっている。しかし、その証拠となるものは婦人の証言によるものだけだから、公式な見解としては外務省を追放された証拠はないということではないだろうか。
2)本省が出先に注意することは珍しくなく、杉原は一度として譴責処分を受けていない。また杉原だけでなく、ヨーロッパにあった日本大使館や領事館も多くのユダヤ人にビザを発給していた。ビザの発給は本国政府の方針に大筋において沿ったものであり、杉原千畝がどんな形であれ、たとえ勝手にビザを発給していたとしても、本省から処分を受けていたとすれば、勲五等瑞宝章は受賞されなかったのではないか。
また、外務省の人員整理は終戦後のアメリカ占領下で外交権を否定され一切の外交機能を奪われた中で行われている。このもとで、多数の職員が依願退職の形で外務省を去り、外務省の定員が1946年(昭和21年)に2260人だったのが、翌年にはおよそ三人に一人が退職を求められ、1563人にまで激減している。
3)杉原千畝は、当時の外務次官だった岡崎勝男から、それまで勤務に奨励したことに感謝する私信と、特別に金一封を送られている。次官が実筆をもって私信を認める行為は、杉原が外務省を追われたという通説との整合性はどうなるのだろうか。詳しい経緯が知りたい。
(参考文献:ラビ・マーヴィン トケイヤー「ユダヤ製国家日本―日本・ユダヤ封印の近現代史」)
参考サイト ・ふぐ計画 http://www.world-reader.ne.jp/renasci/history/okazaki-060901.html