松平忠国 (播磨国明石藩主)
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松平 忠国(まつだいら ただくに、1597年9月28日(慶長2年8月17日) - 1659年4月11日(万治2年2月20日))は江戸時代初期の大名。丹波国篠山藩主、播磨国明石藩主。藤井松平家嫡流3代。藤井松平信吉の長男。母は藤井松平信一の娘(養女で阿部定吉の娘とも)。
正室は戸田氏鉄の娘。子は松平信久(長男)、松平信之(次男)、松平信重(三男)、松平忠栄(五男)、娘(内藤頼長正室)、娘(松浦鎮信正室)、娘(保科正景正室)、娘(酒井忠興室)、娘(本多忠将正室)、娘(善法寺要清室)、娘(藤井松平忠昭正室)。官位は従五位下、山城守。
1620年(元和6年)に父・信吉の跡を継いで丹波篠山藩5万石の藩主となり、1649年(慶安2年)に播磨明石藩7万石に加増転封された。
1659年(万治2年)2月20日、死去。63歳。戒名、浄源院殿雲誉崇安道覚大居士。京都千本称念寺に葬られた。
娘の1人は、忠国の弟の家・藤井松平伊賀守家へ嫁ぎ、甥・忠昭の正室となった。息男の3人には、自身が秀忠将軍から拝領した1字『忠』 を用いる事無く、祖父・勘四郎以来の『信』 を、それぞれに名づけた。山城守を継いだのは次男・信之。信之には兄・信久がいたが、忠国の隠居前での不幸で、山城守を襲名せずに早世した。信之の弟・信重は新家を興し、5000石の旗本になった。
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