松野重元
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松野 重元(まつの しげもと ? - 明暦元年(1655年))は戦国時代の武将。名ははじめ「正重」か。通称平八。父は土岐氏に仕えた松野重定と思われる。主馬首であり、「松野主馬」、あるいは「道円」という号で「松野道円入道」として知られる。
豊臣秀吉に仕え、丹波国に300石の領地を得る。小早川隆景の養子となった木下家定の五男秀詮(のちの小早川秀秋)が丹波亀山から筑前へと移封になった際にこれに付けられ、鉄炮頭を務める。秀吉から強い恩顧を受けていた重元は、関ヶ原の戦いにおいて、東軍へと寝返った秀秋に反発し、戦線を離脱する。しかし、このことが主家を裏切らなかった忠義者として評価を受け、後に没落した秀秋の元を去った後、筑後国柳河藩を与えられていた田中吉政に実に12000石の松延城城番家老として仕官することができた。
吉政の下、治水工事や堤防工事などに才を発揮し、重元が改修した川は「主馬殿川」と呼ばれた。しかしながら、吉政死後、柳河藩はお家騒動により取り潰しに合い、重元は続いて徳川忠長に仕えたがこの忠長も後に改易。主君に恵まれなかった重元はその後流浪の日々を送り、陸奥国白河で死去したという。