欽宗 (宋)
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欽宗(きんそう、1100年 - 1161年 在位1125年 - 1127年)は北宋の第9代皇帝にして最後の皇帝。諱は亶。1102年2月からは烜。1102年12月からは桓。徽宗の長男。高宗の長兄。
1125年、父の徽宗が対金政策に誤りを犯し、金は宋に対して大軍を発した。この事態に徽宗は「自らを罪する詔」を出し、帝位を欽宗に譲り上皇となった。翌年、金が開封を包囲した。欽宗は李綱を用いて防御に当たったが、結果賠償金と領土割譲する事で金と和約した。
だが、金軍がいなくなると宋の閣僚達は金に対して強硬論を唱え始め、賠償金や領土を渡さない方針に変化した。この宋の違約に金は激怒し、再び開封を攻め、今度は陥落させた。徽宗と欽宗は金の捕虜と相成り(靖康の変)、その後は韓州(吉林省梨樹県、1128年)をへて東北の五国城(黒龍江省依蘭県、1130年)へと連れ去られた。
1127年、欽宗の弟・趙構が南宋を興し高宗となると、欽宗の立場は複雑なものになった。もし欽宗が南宋へ帰還が認められれば高宗は簒奪者となるわけである。宋は歴代王朝の中でも特に正統論がやかましかった時代で、実際に金もそういった策略を考えたが、高宗が欽宗を返さないで欲しいと意を含ませたためその話は無くなった。また、高宗の生母の韋夫人が南宋に帰還する時に欽宗は継母の韋氏に「お義母上、このわたしが母国に戻れるようになにとぞ、義母上のお口添えで構にお伝えくださいませ…」と涙を流して嘆願したという。
その後も欽宗は30年以上に渡って東北に監禁されたままで、1161年、北満洲にある極寒の東北の地である五国城にて61歳で病没した。なお、彼の子孫は海陵煬王によって皆殺しされたために、途絶えたという。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 朱皇后
- 朱慎徳妃(朱皇后の従妹)
- 鄭夫人
[編集] 子女
- 柔嘉公主
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