熙宗 (金)
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煕宗(きそう、1119年 - 1149年)は、金の第3代皇帝(在位1135年 - 1149年)。金の太祖阿骨打の嫡子である宗峻(繩果)の長子。姓は完顔、名は亶、女真名は、合剌(ハラ、カラ、ホラ)。正妻は女真貴族の裴満忽達の娘の裴満氏(悼平皇后、天眷元年(1138年)に皇后に昇格)。子は裴満氏が産んだ太子の済安、魏王済道。なお、生母は女真貴族の娘の蒲察氏である。
1132年に大叔父の太宗呉乞買(ウチマイ)の皇太子となり、1135年に第3代皇帝として即位した。熙宗の時代にはこれまでの女真式の部族制国家から脱却、皇帝独裁の確立を目指して王朝の中国化が図られ、中国風の官制を導入した。また中央集権化が進められ、中国北部の支配の強化なども行なっている。
外交においては、1141年に南宋との間で最初の和議を結び、淮水の線を国境とする分断の固定化が行われ、そのために宋は金に対して臣下の礼を取り、歳幣を毎年支払うことを定めるなど、金にとって圧倒的に優位な条約を結んだ。
一方、太子の済安と魏王の済道が夭折したために、彼は突然に皇帝の独裁強化のために先帝以来の功臣であった宗翰(女真名・粘没喝=モティエホ)を初め、女真人の重臣や王族の粛清を繰り返したり、奢侈に走って酒に溺れるなどの暴政を繰り広げたため、1149年、自身の反対派と共謀した従弟の海陵王によって廃され、後に殺害された。齢31。
目次 |
[編集] 宗室
[編集] 妻妾
- 悼平皇后(裴満氏)
- 賢妃
- 完顏道濟
- 徳妃烏古論氏
- 張氏
- 裴満氏
[編集] 子女
- 英悼太子済安
- 魏王済道
[編集] 年号
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