甲陽軍鑑
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甲陽軍鑑(こうようぐんかん)は、日本の戦国大名である武田氏の戦略・戦術を記した軍学書である。
1582年(天正10年)に武田氏は滅亡したが、織田信長の死後、徳川家康が甲州を支配するようになり武田家の遺臣を用いる方針を取ったため、甲州流軍学が盛んになった。本書は甲州流軍学の聖典とされ、広く読まれた。
内容は武田信玄・勝頼二代の戦闘を中心に、軍法、刑法などを記している。
本書を他の史料と対照すると明らかな誤り(合戦の年月など)が多く、史料的価値については疑問が持たれてきた。特に武田勝頼とその周辺に対しては不当に貶められており、例えば長坂光堅は勝頼をたぶらかし武田氏滅亡時には真っ先に勝頼を見捨てた奸臣であると記述されているが、実際には勝頼を最後まで守って天目山で没している。だがその一方で、別史料により事実が確認されたものもあり、その内容については逐一検討が必要である。
作者については、武田信玄・勝頼に仕えた武将・高坂弾正忠昌信の書いた原本を、高坂の甥・春日惣次郎らが書き継ぎ、さらに江戸時代初頭に小幡景憲が編纂した、という体裁になっている。しかし、今日では甲州流軍学の創始者、小幡景憲が高坂昌信の名を借りて作成した、という説が有力である。
近年の研究によれば、本文には戦国期の甲斐地方の独特な表現が含まれているという。武田氏重臣の家に生まれながら甲斐に一度も住んだ事のない小幡にそこまで出来るのかという疑問もある。おそらく信玄時代に残された原史料を参照していると考えられ、良質な史料を含んでいるという評価もあるが、なお今後の研究が待たれるところである。