相馬義胤 (二代当主)
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相馬 義胤(そうま よしたね、生没年不詳)は鎌倉時代の武士。千葉氏の庶流相馬氏二代当主。相馬師常の子。相馬胤綱、女子(岩松時兼妻)の父(異説あり)。五郎。兵衛。別名能胤。
1201年、父の師常が隠居したために家督を継ぐ。1204年、畠山重忠事件が起こると、重忠と縁戚関係(義胤の祖母は重忠の叔母)であったにも関わらず、北条義時に与して重忠を討った。この功により、陸奥国の一部(高城保)を地頭職として任されている。
1221年、承久の乱が起こると子の胤綱と共に(孫の相馬胤継もいたとも)幕府軍として参陣して、宇治川の戦いや近江瀬田橋の戦いで活躍して、軍功を挙げた。