県犬養広刀自
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県犬養広刀自(あがたのいぬかいひろとじ・こおりのいぬかいひろとじ、? - 762年11月8日(天平宝字6年10月14日))は聖武天皇の夫人。正三位。
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[編集] 広刀自の周辺
県犬養宿禰出自の一人。父は県犬養唐。母不明。同氏出身者に藤原不比等妻、県犬養三千代がいる。
広刀自は聖武天皇の夫人であり、聖武天皇との間に、安積親王、井上内親王、不破内親王の一男二女をもうけた。聖武天皇には他に妻として、光明皇后がおり、皇后との間には基親王、阿倍内親王(のちに即位して孝謙天皇)が生まれているが、基親王が生後1年持たずして夭折していることから、聖武天皇の有望な男児を唯一もうけた人物といっても過言ではない。
広刀自が聖武天皇の妃となった時期は詳しくはわからないが、『続日本紀』によれば、安積親王が天平十六年(744)に17歳であったことから、少なくとも神亀五年(728)年には聖武天皇の妻になっていたことがわかっている。一説には、光明皇后よりも先に妻になっていたとも言われている。
[編集] 広刀自の役目
広刀自が聖武天皇の妻となった背景には、前出の三千代の存在が大いにある。というより、不比等・三千代夫妻の推挙によって夫人となったと考えて差し支えないであろう。広刀自の娘、井上内親王が斎王に選ばれ、光明皇后の息子の基親王が、産まれてまもなく皇太子となっているところから、最初から広刀自には内親王を産むことが期待され、光明皇后(光明皇后の母は県犬養三千代)には親王の出産が期待され、それぞれ斎王と天皇とになっていくことが目論まれていた可能性がある。
さらに、広刀自の娘である井上内親王、井上内親王と光仁天皇との間に産まれた娘である酒人内親王、そして、酒人内親王と桓武天皇との間に生まれた娘である朝原内親王の3代にわたって斎王に選ばれているところから、広刀自ないしは県犬養氏には、言わば、「斎王腹」としての役割が期待されていたのではないか、とする説がある。
[編集] 歴史の皮肉
しかし、前述のとおり、聖武天皇と光明皇后との間に産まれた基親王は早くに亡くなり、安積親王の存在がクローズアップされるようになってしまう。藤原氏は対抗措置として、前例のない内親王の立太子を実現させることになる。そんな中で、安積親王自身も若くして亡くなってしまう(藤原仲麻呂による毒殺との説もある)。
そして、広刀自は、安積が没してから十八年後の天平宝字六年(762)10月に亡くなる。このとき正三位。広刀自所生の子女はいずれも悲劇的な運命をたどったが、とりわけ長女井上内親王が一時は光仁天皇の皇后となりながらも、廃后の末に不自然な死を遂げるのを見ずに終わったのはせめてもの幸いだったろう。
[編集] 参考文献
- 『続日本紀』巻十二天平九年(七三七)二月戊午条
- 『続日本紀』巻十五天平十六年(七四四)閏正月丁丑条
- 『続日本紀』巻廿三天平宝字五年(七六一)十月壬戌条
- 『続日本紀』巻廿四天平宝字六年(七六二)十月己未条
- 写経料錢経師布施等注文案帳(正倉院文書) 天平十八年四月十五日
カテゴリ: 飛鳥・奈良時代の皇族 | 775年没