神宗 (宋)
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神宗(しんそう、1048年 - 1085年、在位は1067年 - 1085年)は、北宋の第六代皇帝で、第五代皇帝・英宗の長男。諱は仲鍼。父の皇帝即位後は頊。
1066年に皇太子となり、翌年に父の死去に伴って皇帝として即位した。(神宗は父の英宗が傍流出身だったため、少年期はやや不遇な時代をすごした。その折、朝廷内部や官界・政界の様子を外から見られたことが、改革実行時に役立った。)
皇帝即位後は、地方で実績を出し評判となっていた王安石を登用し、国家再建に乗りだした。王安石の改革は、「政・官・財・軍事」の仕組みを改造(構造改革)して政府を効率化し、結果として徴税層(中小農民・商人)の負担を軽くすることで国を末永く発展させようと目論んでいた。神宗もその王安石の理念に同意し、全権を与えた。
しかし、その改革が大地主・大商人をはじめ、皇族などの既得権益に切り込むものだったため、彼らは一斉に反対運動を起こした。官界でもその反対運動に同意するグループ(後に旧法派と呼ばれる)が結成され、仕事放棄(サボタージュ)をおこない行政事務を停滞させることで王政権に対する嫌がらせを行った。
王安石は、宰相の権限をフル活用し、これらの反対運動を徹底的に押さえ込んだ。そして司馬光・文彦博など反対派グループを相次いで処罰する。
図書館司書長という閑職に追い込まれた司馬光は、この逆境をバネとして「資治通鑑」編纂という大事業を成し遂げた。他の旧法派官僚たちも民間で文学や詩文・絵画・教育など身の丈にあった仕事をすることで、社会に新たな息吹(中国のルネサンス)を吹き込んでいく。
神宗と王安石が、彼らの(政治以外の)社会的地位については保証し、活動の自由を与えたこともこの傾向に拍車をかけた。歴史書でこの時代(王安石宰相時・神宗親政期)は「新法派以外はすべて弾圧された暗黒時代」という様に描かれることが多いが、それほどではない。むしろ世の中が息苦しい状態になるのは神宗が亡くなってからである。
ただ、神宗はこの反対派の運動に動揺していた。そこで、王安石直々に説得が行われ、新法を継続させることに改めて同意を与えた。また新法実施地域を全国に広げさせ、引き続いて新しい政策を実施していくことも承認した。加えて、反対派グループに対抗していくために、王安石グループの呂恵卿・曾布などの実務官僚を次々と抜擢することまでも認めた。
この時、神宗の改革の決意は完全に固まったといえる。
その後、熙寧7年(1074年)天災が相次いだことと、新法派内部で政策不一致が発生したことで、神宗は終に王安石を解任した。ただ、王安石の同僚だった韓絳や腹心の呂恵卿の下で、当初の方針通り新法改革政策は継続されることになった。
熙寧8年(1075年)、呂恵卿が上司の韓絳とたびたび不和をおこし、自分勝手な政権運営を行って新法を反故にしている事に焦った神宗は、再び王安石を呼び戻した。
政権に戻った王安石は、まず周辺諸国と平和外交を行い辺境を安定させ対外軍事費を大きく減らした。国内でも、旧法派の押さえこみにようやく成功し、新法の全国実施(構造改革)が軌道に乗ったことで、国庫にも大幅に余裕がうまれた。景気がよくなったことと共同体再生策が効いてきたことで治安の状況も改善に向かった。
しかし、今度は王政権を支える与党(新法党)側に内部分裂が発生、政権内部で権力闘争が起こった。また、後継者として育てていた息子の王雱が病死したことや、神宗自身が王安石の平和外交や政権運営方法に不満を示すようになった。これらの事件が連続して発生した事で王安石は政権担当意欲を失い、政界を去ることになった。
その後、元号が「元豊」に改められた。元号変更後も、改革は神宗が主導しておこない断続的につづいた。一時分裂した新法派も、神宗が直接統治を行ったことや、蔡確という王安石にも劣らない大政治家が登場してきたことにより再統一をはたした。
神宗は、今までの新法に加えて、この十年で生まれた財政的な余裕を生かした政策を実施していく。まず、国内政府をより効率的に動かせるために「行政改革」をおこない、役人の数を大幅に減らした。それに関連して官界への国家からの締め付けが厳しくなった。金融部門の新法である青苗法や市易法などに手を加えて、前にもまして、市場での政府の影響力を強める施策がとられた。また、王安石と違い軍事方面に力を大きく入れることにした。
上記の元豊時代の政策は、神宗独自におこなったように見える。ただ、基本的には(軍事面以外は)王安石が目指していた方向と同じであり、それを実情に合うように修正・補強していったのだ。そして神宗親政後半は、よりいっそう新法が厳格に広範囲に実施され、北宋の全盛期を迎えた。
この国力に自信を深めた神宗は国初以来の外敵西夏に侵攻した。しかし、散々に大敗してしまった。
気の強い神宗もこの大敗には衝撃を受け、以後、体調を崩すことが多くなる。そして、元豊8年(1085年)、神宗は新法改革の途上でなくなってしまった。38歳の若さであった。故郷にいて新法の行方を見守っていた王安石は、この神宗崩御の報を聞くやいなや倒れてしまい、そのまま病の床に就いた。そして翌年、政治は新法嫌いの宣仁太后が全権を握り、新法全廃が決定されたという知らせを聞きながら亡くなった。その後、宋は急速に衰退してゆくこととなる。
神宗は、王安石とともに新法改革を行い、一時は宋を復興したことで、中国の歴史でも指折りの名君といえるだろう。ただ、その改革をめぐって役人達を分裂させてしまったうえに、自らが手塩にかけた改革を後世に受け継がせる事に失敗したことで、宋の国を崩壊させる種をまいてしまった。それらの点では功罪相半ばするともいえる。
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