秋田城介
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秋田城介(あきたじょうのすけ)とは律令制において出羽国の秋田城を専管した国司である。秋田城に置かれた出羽介であることから秋田城介といわれるようになった。
780年に秋田城強化の方針が打ち出され、国司が秋田城に常在し統治に当たることとなった。10世紀後半には平繁盛が秋田城介に任官して以降、繁盛の子孫(繁盛流)、特に繁盛の孫である繁茂の一流が秋田城介を世襲し、繁茂の子、平貞成からは秋田城介にちなんで城(じょう)の名字を名乗り始めた。この頃には、秋田城介の官職は名目だけのものとなっていた。しかし、秋田城介になることは武門の誉れとされるようになった。
ちなみに、城氏は越後に土着した(越後城氏)が、治承・寿永の乱の際に平氏側へついたため、不遇をかこつこととなり、1201年(建仁1)、城資盛が起死回生を図って挙兵したがほどなく鎌倉幕府に滅ぼされ、城氏は途絶えた。
1218年(建保6)、幕府の有力御家人である安達景盛が出羽介に任ぜられ、秋田城介を称した。これは、秋田城介が武家にとって栄誉ある名跡となっていたためである。これ以後、鎌倉期を通じて安達氏が秋田城介を世襲した(安達泰盛が滅ぼされた霜月騒動は「秋田城介の乱」とも呼ばれる)。室町期には秋田周辺に勢力をはった安東氏が秋田城介を名乗った。
1575年(天正3)、織田信長の嫡男、織田信忠が秋田城介に補任された。信長の全国統一に向けた戦略の一環だろうと見られている。豊臣秀吉の治世下の1589年(天正17)、安東氏の後裔、安東実季は秋田城介を称するとともに秋田氏を名乗った(秋田の氏は秋田城介に由来する)。秋田氏は、関ヶ原の戦い後に常陸へ転封されたため秋田から生駒へ改氏したが、その後、秋田へ復氏し陸奥三春へ移されて明治維新に至った。