答志島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東西約6キロメートル、南北約1.5キロメートル。面積約7平方キロメートルで、鳥羽湾内では最大。
目次 |
[編集] 歴史
古くは『万葉集』にて、持統天皇の伊勢行幸にあたって都に残った柿本人麻呂により、
- 釧着く答志(手節)の崎に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ(巻一・41)
とよまれた地である。平城京跡から発見された和銅5年(712年)木簡にも『志摩国志摩郡手節里』、養老7年(723年)木簡に『志摩国答志郡和具』の文字がみえる。『和名抄』でも、答志郷・和具郷との名もみられる。
答志には志摩国の国衙があったとされ、その跡と思われる大畑遺跡が発見されている。
[編集] 交通
鳥羽港の佐田浜桟橋から、市営定期船で答志まで約30分、答志(桃取)まで約15分。
運賃は平成18年10月現在、それぞれ530円と430円。
[編集] 主な産業
[編集] 九鬼水軍
答志島は、中世の九鬼水軍の根拠地であり、九鬼嘉隆終焉の地。
嘉隆は、信長、秀吉に仕えて志摩地方一円に名をはせる。しかし関ヶ原の合戦では情勢の見きわめに悩み、家名存続のため嘉隆が大阪の豊臣方に、子の守隆は家康の東軍について戦うことになる。敗れた嘉隆はこの地にのがれ、ついに自刃する。
嘉隆の遺言により、自ら築城した鳥羽城を望む岬の頂きに首塚、その麓に胴塚が残されている。
詳細は九鬼嘉隆を参照。
[編集] 参考文献
- 『日本の神々 第6巻 伊勢・志摩・伊賀・紀伊≪新装復刊≫』(2000年7月5日発行、編者:谷川健一、発行:白水社)
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 三重県の島 | 鳥羽市 | 日本の地理関連のスタブ項目