篠塚流
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篠塚流(しのづかりゅう)とは、江戸時代の後期、文化・文政期(1804年 - 1830年)の頃、上方歌舞伎所作事の振付師・篠塚文三郎により創設された京舞の流派。
初代家元篠塚文三郎は、当時名優といわれ人気のあった三世中村歌右衛門からその手腕力量を認められ、梅扇の名を許された。幕末から明治初期にかけて、はんなりとおおらかな所作が京の花街、町衆の人気を呼んでいた。
三世家元篠塚梅扇が1886年(明治19年)に没した後は、多くの門弟によって流風は残されたが後継者は無いままになっていた。1946年(昭和21年)篠塚流最後の町師匠と言われた水野つる女が亡くなり、一時篠塚流は途絶えた。
1963年(昭和38年)水野つる女に幼少から舞を師事し、地唄を主とした上方舞を学んでいた五世家元篠塚梅扇により、京舞篠塚流は再興された。五世篠塚梅扇は平成4年京都市芸術功労賞受賞。以降祇園甲部歌舞練場、京都府立芸術会館他にて、度々「京舞篠塚流の会」を開催。
また文化財に指定されている京都島原角屋での"島原三番艘"、重要文化財芦花浅水荘・京都市指定有形文化財野口邸・杉本邸での"座敷で見る京舞" 他を開催。
1963年(昭和38年)より小町踊りを復活し、毎年7月10日祇園祭神輿洗い神事お迎え提灯に参加。