織田信旧
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織田信旧(おだ のぶひさ、宝永7年(1710年) - 天明3年4月29日(1783年5月29日))は江戸時代の大名。丹波国柏原藩主。丹波柏原藩主・織田信休の3男。生母は生田氏。初名は長旧。通称は豊次郎、織部。官位は従五位下山城守。
宝永7年(1710年)、柏原において誕生。元文2年(1737年)2月9日、実兄である丹波柏原藩主・織田信朝の末期養子として家督を相続する。同年3月19日将軍徳川吉宗に御目見する。同年12月16日従五位下山城守に叙任する。元文3年4月18日、藩主として初めてお国入りする許可を得る。延享3年(1746年)5月21日江戸藩邸で暮らしていた養母松平宣富の娘(養父織田信朝室)が重体に陥り、予定よりはやく江戸に向かうことを許可される。天明3年(1783年)4月29日、柏原において死去、享年74。柏原・徳源寺に葬られた。
「柏原藩史」(篠原直著)によれば、信旧は外様大名でありながら、幕政に参加する希望を強く持っていたらしい。これに対し、老中松平武元は家名を傷つけることもあるとして思いとどまらせたという。
正室は細川宣紀の十女岑。子女に三男信応、四男長貴ら四男あり。なお、宝暦8年(1758年)3月、長男元丸・次男勇千代の早世により、後継者のいなかった信旧は、分家から信憑(高家旗本織田信栄の次男)を養子を迎えた。しかし、同年、三男信応の誕生を見る。その結果、信憑の治世に信憑系と信旧系の血族の間で藩主の地位をめぐるお家騒動の起きることになった。
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