織部流
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織部流(おりべりゅう)は茶道流派の一つ。古田織部の創始による流儀で侘茶法と式正茶法の両伝があり、紆余曲折を経てともに織部が建立した京都興聖寺(織部寺)に伝えられている。また式正茶法は式正織部流(しきせい-)と称して千葉県市川市国府台の織部桔梗会が教授にあたっており、千葉県指定無形文化財。
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[編集] 特徴
侘茶法は利休ゆずりの草庵の茶であり、若干の相違はあるものの三千家とほぼ同様の流儀である。これに対して式正茶法は書院および広間の茶であり、室町以来の書院茶に武家の礼儀作法と侘茶の精神とを取り入れた織部独自の流儀である。式正茶法の特色として、畳の上に直接道具を置くことがなく、居前で手を清めたり、帛紗を使い分けるなど清潔を旨としていることが挙げられる。太閤点、六天目点など、為政者好みの点前があることも特徴である。
[編集] 歴史
初代古田織部正は美濃の古田重定の子で、字は左介、諱を重然といい、伯父重安の養子となり、中川清秀の妹を娶った。武将として信長・秀吉に仕え、茶人としては千利休に学び利休七哲の一人に数えられる。利休切腹の後に秀吉の茶道役、また徳川2代将軍秀忠の茶道師範を勤め、小堀遠州をはじめとする諸大名にも茶の湯を伝授した。作意趣向を凝らしたことで知られ、造園、建築、諸道具から料理に至るまで「織部好み」と呼ばれるものが伝わっている。慶長8年(1603年)、円通山興聖寺を建立して菩提寺とした。元和元年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣方に内通したとの嫌疑をうけ自刃させられ、織部の子らも殉じてみな興聖寺に葬られた。
さて養父重安には後に実子重続が生まれたので、織部は娘を妻の実家中川家の養女として義弟である重続に嫁がせていた。重続の一族は織部の罪が及ぶべき所を特に赦されて、豊後岡藩中川家の家老として幕末に至り、この間織部流はお留流として古田家内々にのみ受け継がれた。これは徳川家の特赦に対して憚ったものと伝えられる。
しかし14代古田重名宗関は維新に際して豊後から東京へ移り、明治31年(1898年)に茶道温知会を起こして多くの弟子に織部流を教授した。宗関の高弟に岡崎淵冲と原鉄石があり、岡崎淵冲は侘茶法と式正茶法の両伝を受けたが、その弟子の佐藤淵邦は侘茶法のみを受け継ぎ、これがまず京都興聖寺に伝えられた。一方、原鉄石は式正茶法のみを受け15代緑竹庵の代理として弟子を育て、その中の秋元瑞阿弥が16代を受け継ぎ千葉県指定無形文化財保持者に認定された。瑞阿弥は京都興聖寺の住職浅野牧仙を17代として式正茶法を伝えたため、興聖寺には岡崎淵冲を経た侘茶法と原鉄石を経た式正茶法の両伝が伝わることになった。また国府台の織部桔梗会では秋元瑞阿弥没後も引き続き式正茶法を教授している。
ほかに織部流扶桑派があり、明治時代に日種譲山とともに京都興聖寺を復興させた見中斎米山により創始されたもので、やはり式正茶法を伝えているようである。
[編集] 歴代
代 | 名 | 号 | 生没年 | 備考 |
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初 | 古田重然 | 織部正 | 1544年- 1615年6月11日 |
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二 | 古田重続 | 織部の養父重安の実子で、織部の女婿 | ||
三 | 古田重則 | 重続弟 | ||
四 | 古田重直 | 重続の実子で重則の養子 | ||
五 | 古田重治 | |||
六 | 古田重武 | |||
七 | 古田重員 | |||
八 | 古田相政 | |||
九 | 古田重元 | |||
十 | 古田重著 | |||
十一 | 古田広計 | ?- 1817年 |
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十二 | 古田重功 | |||
十三 | 古田重剛 | |||
十四 | 古田宗関 | 重名と称した | ||
十五 | 古田素春 | 緑竹庵 | 咲子と称した | |
十六 | 秋元瑞阿弥 | 竹宝庵 | ?- 1963年 |
千葉県指定無形文化財 |
十七 | 浅野牧仙 | 王雲斎 | 京都興聖寺住職 |
[編集] 外部リンク
[編集] 参考文献
- 浅野牧仙 「織部流」『日本の茶家』井口海仙・久田宗也・中村昌生 編、川原書店、398-416頁、1983年。ISBN 4-7611-0068-0
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