若狭島津氏
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若狭島津氏(わかさしまづし)は、若狭国に興った薩摩国島津氏の支族。
[編集] 概要
島津忠久(島津氏高祖)の弟・津々見忠季( 若狭忠季)より興った。若狭地方の地名を冠し、津々見、若狭、三方、井崎をなのるが、七代目季村の時に、島津氏を名乗るに至る。忠望の代に京都に移り、江戸時代初期に漢学者・島津崋山義張を輩出する。崋山の子孫は、阿波蜂須賀藩の庄屋になり、現在に至る。若狭・三方地方では、三方、井崎の苗字で庶流が現在も認められる。
[編集] 室町時代(三方氏)
応永16年、若狭国守護一色満範が没すると、相続争いがおきる。三方範忠は、長男の一色義範(後に義貫)を擁し、自らは若狭国守護代となる。
永享12年(1440)5月15日、大和国人越智氏討伐のため出陣していた義貫は、武田信繁の子・信栄に誅殺される(6代将軍足利義教の命令)。この際、若狭国守護代・三方忠治と三方弾正は、最後まで奮戦し、討死した(『師郷記』永享12年5月15日記)。治部少輔信栄は若狭守護となり、6月29日に若狭国に入部したが、一色誅殺の時、忠治から一太刀を受けており、これが原因で7月23日に死亡したと伝えられている。
また、義貫に仕えた三方一族に、三方修理亮が今富名又代官として記録されている。
[編集] 島津崋山
元文二年に京都で誕生。寛政六年七月二十三日平島で没。享年五十八歳、那賀川町大京原中塚墓地に埋葬。 崋山生誕の翌年に母が、さらにその翌年に父も他界する。このため、父の友人の医師・京極高安夫婦に引きとられて養育された。最初、医術を、後に儒学を修めた。その後、平島公方八代目・義宣に招かれて平島に移住し、古津の「栖龍閣」に往み、義宜の子・義根の師となり、この地方の好学の士や憎呂を教育した。華山の妻、操も作詩したようで、辞世の句が墓碑に残っている。華山の義妹とその夫・平島公方家臣・高橋言守が二人の男子を残し、ともに他界したため、華山はその一人・朝彦梁を引き取り、養子とした。彦梁は義根に仕え、「栖龍閣詩集」の編纂を助けた。その後、義根は、藩主に増禄を求めたが受け入れられず、文化二年(1805)阿波を去って紀州に行き、さらに京都へ移った。彦梁も義根に従い京都に移る。