薄田兼相
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
薄田 兼相(すすきだ かねすけ、? - 慶長20年5月6日(1615年6月2日))は戦国時代の武将。隼人正。豊臣秀吉、秀頼の家臣。3000石を領す(後に5000石に加増)。豪傑岩見重太郎と同一視される。
山城国、または筑後国出身と言われる。前半生はほとんど不明。1611年(慶長16年)の禁裏御普請衆として名が残っている。1614(慶長19年)、大坂冬の陣において博労ヶ淵砦の守備を任じられるが、遊郭に通っている最中に留守中の砦を徳川方に襲撃され、陥落されるという失態を犯してしまう。その後兼相は「橙武者(見た目はおいしそうだが、実際はまずくて飾り以外には使えたものではない)」と味方から嘲りを受ける。
自らを恥じた兼相は、翌年の大阪夏の陣道明寺の戦いにおいて進んで陣頭指揮を取り、敵を多数なぎ倒し汚名返上した後に戦死を遂げた。水野勝成の家臣河村重長に討たれたと言われている。