諸葛恪
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諸葛 恪(しょかつ かく 203年 - 253年)。字は元遜。中国三国時代に呉に仕えた人物である。諸葛瑾の長男で、諸葛亮の甥にあたる。子は諸葛綽・諸葛竦・諸葛建。
若い頃から機知と才気に長け、その才能を発揮していた。性格は父・諸葛瑾や叔父の諸葛亮とは正反対と言っても良く、思慮深いとは言えず、いい加減で、野心家であり、弁論でも他人をやりこめるのが得意であり、才能をひけらかすのが好きだった。
逸話として、宴の最中に引き出された驢馬の額に、孫権が戯れて「諸葛子瑜」と書いた(諸葛瑾は面長であったとされる)ことがあった。一座の者は大笑いしたが、父を馬鹿にされて面白くない幼少の諸葛恪は、その驢馬の文字の下に「之驢」と書き加えた(諸葛瑾の驢馬という意味にした)。孫権はじめ一座の者は、その機転の良さに舌を巻きその驢馬は諸葛瑾に与えられた。他にも正史には彼の幼少時代の才気煥発さを示すエピソードが多く載せられている。 諸葛瑾は常に「息子は頭が良過ぎる。家を栄えさせるのもこの子なら、潰すのもまたこの子だろう」と嘆いていたらしい。弟の諸葛亮とは違う「頭の良さ」を見切っていたのかも知れない。その諸葛亮も陸遜に宛てた書状の中でわざわざ「恪は大雑把でいい加減なので兵糧管理などは向かない」と判じて注意し、更に陸遜も彼をつかまえて「その人を人と思わない性格をどうにかしろ」と窘めている。
234年丹陽太守に任じられ山越の討伐を命じられる。諸葛恪は、三年で山越を帰順させ、四万の兵を手に入れる事に成功した。その功績をたたえられ、威北将軍に任じられた。
孫権が病に倒れると(252年)、皇太子の孫亮がまだ幼かったので諸葛恪は、大将軍と太子太傅に任じられ、孫弘と共に後事を託された。
孫弘は諸葛恪と仲が悪かったことから、孫権の死を隠して諸葛恪を排除しようとしたが、逆に露見し誅殺されてしまう。 これによりこの後の呉の実権は諸葛恪が握ることになる。
同年、魏の侵攻を撃退するとそれに気をよくした諸葛恪は周りの諫めを無視して倒魏の兵を起こすが、無惨な失敗に終わり人望を失ってしまう。そして253年孫峻達のクーデターにより殺され、諸葛瑾の心配した通り一族皆殺しにされてしまう。