赫連昌
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赫連昌(かくれんしょう、?-434年)は、五胡十六国時代の夏の第2代皇帝(在位:425年-428年)。北魏に敗れてその庇護下で会稽王となり(在位:428年-430年)、次いで秦王となる(在位:430年-434年)。
初代皇帝・赫連勃勃(世祖)の子として生まれる。425年、父の死で皇位を継承し、第2代皇帝として即位する。426年、二路より5万の兵を進めて西秦を攻め、都の枹罕を陥して西平まで進出したが、逆に手薄になった本国を北魏の世祖太武帝(拓跋燾)に攻められて関中諸城を占領された。
427年、北魏の侵攻を受けて都の統万城を占領された。赫連昌は統万城から脱出し、安定を都に定めて抗戦したが、各地で北魏に敗れ、428年に赫連昌は北魏に捕らえられた。
その後は北魏の庇護を受けて会稽公となり、430年に秦王となるが、434年に北魏によって殺された。
[編集] 宗室
[編集] 父母
- 父:赫連勃勃(世祖)
[編集] 兄弟
- 弟:赫連定
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カテゴリ: 中国史の人物 | 魏晋南北朝時代の人物 | 中国の皇帝 | 434年没