利用者‐会話:越後長岡と牧野一族を学ぶ会
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[編集] 越後長岡藩疋田氏と今泉氏について
越後長岡と牧野一族を学ぶ会様、ご質問有り難うございます。残念ながら長岡藩疋田氏の出自について私は確定的なものは持ち合わせておりません。
御指摘の通り、疋田氏は東三河の諸士であったとは考えにくく、牧野氏が徳川家康に帰服後のいずれかの時点で牧野氏に付属したものと想像されます(天正期でしょうか?)。長岡藩士の出自を書いた史料『諸士由緒記』で疋田水右衛門は天正7年の遠州持舟城攻めの際高名したが、その時戦死、その嫡子も大坂夏の陣で高名したことが挙げられますが、父子の実名もそれ以前の出来事も記されず、その戦いにいかなる立場で参陣していたかは不明です。しかしこの高名が原因で牧野氏家中で特別な扱いになったとはあり得る話でしょう。初代稲垣平助(則茂)は同じ大坂の陣で甲首(かぶと首)一級をあげ牧野家中で筆頭家老として付属しただけでなく徳川氏直参の格を兼帯する特別な位置につくことになりました。殊勲の内容によっては大きな評価を受ける事があったのでしょう。
疋田氏の場合、4代目水右衛門(正典)が旧野田城菅沼氏の筆頭家老である今泉四郎兵衛の次男の出自と書かれており、この今泉氏は元松平姓(長沢松平)であったことが知られてます。初期長岡藩家老の今泉竹右衛門(1300石)とその族も松平姓であり、竹右衛門が長岡藩を辞めて旧縁の菅沼織部正に仕官したらしいことからも、初期長岡藩で疋田氏は今泉竹右衛門と浅からぬ間柄であったことが考えられます。
長岡藩今泉氏は疋田氏と異なり戦国期に東三河地域に居住していたことは間違いなく、但し元来牧野氏家臣ではなく菅沼氏家臣であった可能性があります。牧野氏付属の背景に家康の意志があったかもしれません。その影響かどうか長岡藩寛永分限帳の今泉氏の知行1300石のうち無役分1000石中800石が「公儀普請のため」と注記され(本給は300石)、公儀との強い関連性が見える。菅沼氏への再仕官がかなったのも何か最初から牧野氏と了解事項があったのかも知れません。 あまり、確定的な話ではなく申し訳ありませんがこんなところで・・・故城一片之月 2007年2月16日 (金) 19:00 (UTC)
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