鎌倉殿
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鎌倉殿(かまくらどの)は、鎌倉幕府の長。また、そこから転じて鎌倉幕府そのものを指すこともある。
「幕府」の語は江戸中期以降用いられたものであり、鎌倉時代の武士は鎌倉幕府を「鎌倉殿」と呼んでいた。 また、室町時代の鎌倉公方も当時は「鎌倉殿」と呼ぶのが普通であった。ちなみに室町幕府の長である将軍を室町殿と呼ぶ。(但し三代将軍義満以降)
[編集] 征夷大将軍との関係
鎌倉幕府時代、鎌倉殿と御家人との主従関係は私的なもので、公的に裏付けられたものではなかった。これは源頼朝が征夷大将軍に任命される前からの関係である。そのため、「鎌倉殿」は征夷大将軍の職位と厳密にはイコールではなく、征夷大将軍の地位そのものは鎌倉幕府の存立とは直接の関係はない。征夷大将軍の地位は、「鎌倉殿」の地位を公的に担保するもの、と考えるのが一般的である。実際、源頼朝は征夷大将軍の就任の3年後、同職を辞しているし、4代鎌倉殿となった藤原頼経も将軍職に就いたのは鎌倉下向の7年後であり、その間将軍職は空位であったが、「鎌倉殿」であることは変わらず、特に問題とされなかった。 なお、「鎌倉殿」の地位を公的に担保するのは征夷大将軍ではなく、日本国惣追捕使(にほんこくそうついぶし、惣追捕使(後の守護)の任免権を持つ)及び日本国惣地頭(地頭の任免権を持つ)の二つの地位である、とする説もある(この二つの地位は、どちらも1190年に頼朝が得たもので、これらの地位は鎌倉殿に受け継がれる)。
[編集] 源氏棟梁と鎌倉
河内源氏二代目の源頼義が舅である平直方の鎌倉の屋敷を譲り受け、以後源義朝のときに源氏の東国での拠点と成り、頼朝に至る。鎌倉殿は源氏家人の主(源氏棟梁)をさし、頼朝から右大将家~将軍家(武家の棟梁)の通称となった。