馬殷
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馬殷(ばいん、852年-930年)は、五胡十六国時代の楚の初代君主(在位:896年-930年)。字は覇図。諡号は武穆王(ぶぼくおう)。
[編集] 生涯
852年、許州(現在の河南省)に生まれる。はじめ木工の職人であったが、唐の混乱期に乗じて盗賊の秦宗権の武将・孫儒の将校となって各地を転戦して武功を挙げた。やがて孫儒が死去すると、劉建峯の配下となり、そのもとで各地を転戦して湖南で一大勢力を築き上げた。劉建峯の死後、その後を継いで湖南の実力者となる。
896年、湖南節度使となる。907年に唐が滅んで後梁が成立すると、朱全忠から楚王に封じられた。923年に後梁が滅ぶと後唐に仕え、そのもとで勢力を巧みに拡大した。その一方で中央王朝の制度を積極的に導入して王朝の確立を目指し、産業の奨励・発展を図るなど、内政にも尽力した。
930年に死去。享年79。
死後、馬殷の息子たちによる後継者争いが始まり、息子の時代による歴代皇帝の争いで楚は滅亡することになる。
[編集] 宗室
[編集] 子
- 馬希振
- 衡陽王(馬希声)
- 文昭王(馬希範)
- 廃王(馬希広)
- 恭孝王(馬希萼)
- 廃王(馬希崇)