高橋景保
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高橋景保(たかはし かげやす、天明5年(1785年) - 文政12年2月16日(1829年3月20日))は、江戸時代後期の天文学者。
天明5年(1785年)、天文学者である高橋至時(たかはしよしとき)の長男として、大阪に生れた。文化元年(1804年)父の跡をついで幕府天文方となり、文化7年(1810年)「新訂万国全図」を制作した。一方、伊能忠敬の没後、忠敬の実測をもとに「全日本沿海輿地全図」を完成させている。文化8年(1811年)蕃書和解御用(ばんしょわげごよう)の主管となり、「厚生新編」を訳出する業務を始めている。文化11年(1814年)書物奉行兼天文方筆頭に就任したが、文政11年(1828年)シーボルト事件に関与して投獄され、翌文政12年(1829年)2月16日に獄死している。獄死後、遺体は塩漬けにされて保存され、後日改めて引き出されて罪状申し渡しの上斬罪に処せられている。このため、公式記録では死因は斬罪という形になっている。
墓は、上野の源空寺。高橋至時・伊能忠敬・高橋景保の大日本沿海輿地全図組三人頭の墓地が並んでいる。
[編集] 高橋景保を題材とした作品
- 二宮陸雄『高橋景保一件 幕府天文方書物奉行』(愛育社、2005年) ISBN 475000233X