黒田斉隆
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黒田斉隆(くろだ なりたか、安永6年9月21日(1777年10月21日) - 寛政7年6月23日(1795年8月7日))は、江戸時代後期の第9代筑前国福岡藩主。幼名は雅之助。実父は一橋徳川家二代当主徳川治済(斉隆は三男)、生母は岩本氏。官位は従四位下侍従、筑前守。なお、江戸幕府十一代将軍徳川家斉は、実兄である。
1782年12月19日、福岡藩主黒田治高の末期養子として家督を相続した。1790年10月15日、従四位下侍従・筑前守に叙任した。1795年6月23日、死去。享年19。幕府には同年8月24日死亡と届け出た。
正室はいない。長男斉清あり。ただし、長男斉清は秋月藩主黒田長舒の四男ともいわれる。
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黒田斉隆(くろだ・なりたか)は、子連れ狼の登場人物で福岡藩主。1.と同一人物と思われる。かねてより、幕政に参画せんとの思いを抱いていたが、福岡藩は長崎警備の任務があり、さらに黒田家が外様大名であることから、このことは半ばあきらめていた。しかし、子連れ狼こと拝一刀が幕府の陰の実力者である柳生烈堂と対立し、柳生封廻状を奪ったことを知ると、一刀を襲撃して柳生封廻状を奪い、これを烈堂に返して恩を着せ、国替えと幕政への参与を公方及び幕閣に口利きさせようと図り、家臣達の諫言を無視して腕利きの藩士を刺客として一刀・大五郎父子を襲撃させた。間もなく、福岡城で一刀と会見し、その諌めを聞き入れ改心し幕政参与のことをあきらめるも、一刀との歓談中に自身の近習として潜り込んでいた“草”に刺殺された。尚、この“草”は一刀に斬られた。後に、八丁河岸で一刀と烈堂とが決闘し、烈堂を救わんがために公方が御三家や直参を引き連れて八丁河岸に向かった際、かねがね幕府の大名統制策に不満を抱いていた外様大名も一刀を救出すべく大挙して八丁河岸に向かったが、このとき先陣を切ったのが福岡藩であった。斉隆と一刀とのことが福岡藩の人々の脳裏にあったのだろうか?