アリシア・モリク
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アリシア・モリク |
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基本情報 |
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英語名 | Alicia Molik |
国籍 | ![]() |
出身地 | 同・アデレード |
生年月日 | 1981年1月27日 |
身長 | 182cm |
体重 | 72kg |
利き手 | 右 |
バックハンド | 片手打ち |
ツアー経歴 |
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デビュー年 | 1996年 |
ツアー通算 | 11勝 |
シングルス | 5勝 |
ダブルス | 6勝 |
4大大会最高成績 |
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全豪 | ベスト8(2005) |
全仏 | 3回戦(1999・2006) |
全英 | 3回戦(2003・04) |
全米 | 3回戦(2001・03) |
キャリア自己最高ランキング |
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シングルス | 8位 |
ダブルス | 6位 |
Template |
女子 テニス | ||
銅 | 2004 | シングルス |
アリシア・モリク(Alicia Molik, 1981年1月27日 - )は、オーストラリア・アデレード出身の女子プロテニス選手。2004年のアテネ五輪で女子シングルスの銅メダルを獲得した選手である。自己最高ランキングはシングルス8位、ダブルス6位。これまでにWTAツアーでシングルス5勝、ダブルス6勝を挙げている。身長182cm、体重72kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。日本語では「アリシア・モリック」と表記されることも多い。
1996年にプロ入り。1998年から女子テニス国別対抗戦・フェドカップのオーストラリア代表選手となり、オリンピックは2000年シドニー五輪と2004年アテネ五輪の2大会連続で出場した。2003年1月に地元オーストラリア・ホバートの大会で女子ツアーのシングルスに初優勝。長い間地味な存在の選手だったが、オリンピック直前の2004年8月第1週にスウェーデン・ストックホルムで行われた大会でツアー2勝目を果たすと、アテネ五輪でも波に乗って勝ち進み、シングルス準々決勝で日本の杉山愛を 6-3, 6-4 のストレートで破った。準決勝ではフランス代表のアメリ・モレスモに 6-7, 3-6 で敗れ、準決勝敗退選手の2人で争われる「銅メダル決定戦」に回ったが、そこで当年度の全仏オープン優勝者アナスタシア・ミスキナを 6-3, 6-4 で破り、モリクが女子シングルスの銅メダル獲得選手となった。五輪終了後、モリクは10月末に室内コートの大会で2週連続優勝を成し遂げ、スイス・チューリヒ大会の決勝では当年度のウィンブルドン優勝者マリア・シャラポワ、ルクセンブルク大会の決勝ではディナラ・サフィナを破った。
2005年度は年頭にオーストラリア・シドニーの大会でツアー5勝目を挙げる。その後、全豪オープンでアリシア・モリクは選手経歴のハイライトを迎えた。シングルスでは自己最高の準々決勝でリンゼイ・ダベンポートに 4-6, 6-4, 7-9 の大激戦で敗れたが、ロシアのスベトラナ・クズネツォワとペアを組んだダブルスで雪辱を果たし、決勝でダベンポートとコリーナ・モラリューのペアを 6-3, 6-4 で破って4大大会初優勝を決めた。全豪オープン終了後、モリクはシングルスで自己最高の「8位」にランクされ、オーストラリア出身の女子テニス選手としてウェンディ・ターンブル以来の世界ランキングトップ10入りを果たした。
ところが、テニス経歴のピークにあった時にモリクは慢性の前庭神経炎(英語:vestibular neuronitis)に見舞われ、4月過ぎからトーナメントで早期敗退が多くなった。これは内耳性の疾患で、この病気に冒されると、テニスに必要な視野とバランスの確保が難しくなる。モリクは発病後も体調の様子を見ながら何度かトーナメント出場を試みたが、結局うまくゆかず、しばらく病気療養のためテニスツアーへの参戦を断念する意向を表明した。
アリシア・モリクは2006年5月からツアーに本格復帰を果たし、10月の「ジャパン・オープン」にも出場した。