アントニオ・ディ・ナターレ
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アントニオ・ディ・ナターレ(Antonio Di Natale,1977年10月13日-)は、イタリア・ナポリ出身の同国代表、セリエA・ウディネーゼ所属のサッカー選手。愛称はトト。なお、イタリア語で「ディ・ナターレ」という言葉は「クリスマス」という意味である。
現在のプロフィールは身長170cm・体重73kgだが、エンポリ時代は身長177cm・体重70kgとなっていた。ポジションはFW/MF、攻撃的な場所ならどこでもプレーできる。最も得意なのは左サイド寄りから仕掛けるセカンドストライカーの位置。
プレースタイルは、イタリア人選手の中でも屈指の俊足であると同時に繊細なテクニックやプレービジョンの広さ(メディアに「ファンタジスタ」として紹介される事もある)を併せ持ち、両足でボールを扱えるのが特徴で、状況に応じて緩急自在のドリブルを使い分けながら意外性のあるラストパスやクロス、シュートへと繋げていく。
8歳でサッカーを始め、17歳の時に若手育成に定評のあるエンポリに入団し、1996-1997シーズンにセリエBでプロデビューを果たす。同郷のヴィンツェンツォ・モンテッラとは幼少時代からの親友で、また、同時期にはルカ・トーニも在籍していた。
その後は出番に恵まれず、セリエAに昇格したエンポリを出てセリエC1-C2をレンタルで渡り歩く苦労の日々を過ごすが結果を残し続け、1999-2000シーズンに再びセリエBに降格していたエンポリへ復帰するとレギュラーの座を獲得し、2001-2002シーズンには38試合16得点の活躍でセリエA昇格の原動力となった。24歳にしてトップリーグの地を踏んだ2002-2003シーズンも開幕戦でコモを相手に初出場初得点を挙げるとレッジーナ戦ではハットトリック、27試合13得点とその実力が本物である事を見せ付けた。そして2002年11月20日のトルコ戦でついにイタリア代表デビューを果たした。2003-2004シーズンにクラブは降格するがウディネーゼへ移籍、2004-2005シーズンの4位躍進に貢献し、2005-2006シーズンにはチャンピオンズリーグに初出場。バルセロナ等と対戦する。
アズーリではジョバンニ・トラパットーニ監督時代に25歳でデビューし、「背番号10」を背負った経験もあるが、同じポジションにアレッサンドロ・デル・ピエロが君臨していたため構想から外れ、EURO2004のメンバーからは落選した。監督がマルチェロ・リッピに変わると召集される事すら稀となり、ワールドカップドイツ大会のメンバーにも入れなかった。しかしW杯優勝を果たしたリッピが勇退し、ロベルト・ドナドーニが監督に就任すると再び代表に返り咲く(ちなみにディ・ナターレはセリエAにデビューした頃「ドナトーニの再来」と称されていた。ドナトーニも現役時代はイタリアを代表する名ウインガーであった)。そしてEURO2008予選のウクライナ戦でデル・ピエロと交代しピッチに立つと、実に9年ぶりに同じチームでプレーしたトーニへのクロスでアシストを記録し、続くグルジア戦ではスターディングメンバーに入り、再びアシストを記録する。翌月の親善試合では代表デビューの相手でもあったトルコ戦にスターディングメンバーとして出場し、ゴールを挙げるなど好調を維持しており、レギュラーポジションの獲得へ大きくアピールしている。現在のイタリア代表にはマウロ・カモラネージ等のいる右サイドに比べて左サイドを得意とするウイングが不足しており(ドイツワールドカップでも本職ではないデル・ピエロやシモーネ・ペッロッタがプレーしていた)、これからの活躍が期待されるプレーヤーの1人である。
[編集] 所属クラブ
- エンポリ(イタリア) 1995-1997,1997,1999-2004 60試合18得点(セリエA)、99試合31得点(セリエB)
- イペルゾラ(イタリア) 1997-1998 33試合6得点(セリエC2)
- ヴァレーゼ(イタリア) 1998 4試合0得点(セリエC1)
- ヴィアレッジョ(イタリア) 1998-1999 25試合12得点(セリエC2)
- ウディネーゼ(イタリア) 2004- 68試合15得点(セリエA、2005-2006シーズン終了時点)
[編集] 外部リンク
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