アンドレイ・キリレンコ (政治家)
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アンドレイ・パヴロヴィチ・キリレンコ(Андрей Павлович Кириленко, Andrei Pavlovich Kirilenko, 1906年9月8日 - 1990年5月12日)は、ソビエト連邦の政治家。ウクライナ人。ソ連共産党政治局員兼書記。
ドニエプロペトロフスク州およびスヴェルドロフ州の共産党組織に勤務し、ブレジネフの後任としてドニエプロペトロフスク州党第一書記となる。1970年代からソ連共産党政治局員兼書記(組織担当)として、党の実力者となる。また「赤い枢機卿」とあだ名されたミハイル・スースロフ政治局員・書記とイデオロギー担当を共有したとも言われる。1973年にはブレジネフによって後継者として認知されたと観測された。しかし、その後両者の関係は悪化し1977年から1978年にかけて、組織担当の権限をブレジネフの腹心であったチェルネンコに奪われた。1982年1月スースロフの葬儀では葬儀委員として序列が最下位とされ同年3月に政治局員を解任された(「プラウダ」紙の発表は同年10月)。
失脚後、キリレンコは、チェルネンコとブレジネフ後継を争うアンドロポフに接近し、近い関係にあったウクライナ党第一書記のウラジーミル・シチェルビツキーとの関係も維持し、引退後も石もて追われるような事態を防ぎ、1983年6月の最高会議におけるその姿がテレビ放映され代議員の拍手の中引退をした。
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