アン・ボニー
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アン・ボニー(Anne Bonny、Bonneyとも、1697年?‐1720年?)は、18世紀にカリブ海を荒らした海賊ジョン・ラカム(John Rackam)の手下の1人である。
多くが謎に包まれた人物であるが、女海賊の代名詞とも言われ、多くの伝説を残している。
[編集] 生い立ち
アン・ボニーは、アイルランドのコーク郡(co.Cork)キンセール(Kinsale)で、裕福な弁護士と妾のメイドとの間にアン・コーマック(Anne Cormac)として産まれた。不義を犯した父親は妻と職を捨て、アンとその母とを連れてアメリカ・サウスカロライナ州チャールストン近郊にプランテーションを購入して移り住んだ。
年頃になった頃、農場の生活に退屈していたアンは、チャールストンに居た三流海賊ジェイムズ・ボニー(James Bonny)と知り合い、父の反対を押し切って駆け落ちし、バハマのニュー・プロビデンス(New Providence、現ナッソー)へと移った。
[編集] 海賊生活
1719年5月、バハマの居酒屋でアンはジョン・ラカムと出会い、特赦によって海賊を廃業していたラカムが再び海賊稼業を再開すると決めたとき、アンは夫のもとを去りその手下に加わった。掟では女性は乗船を認められなかったため、彼女は男装していた。しかし、海賊仲間の間では女性であることは広く知られていたため、女性であることを隠す意図があったかは疑問である。
一説にはラカムとの間に一子が産まれ、海賊行為を決意した際に地元民に預けたとも言われている。
ラカムが襲った船の乗組員で新たに海賊として加わった中に、美しい顔立ちの少年が居た。アンはその少年が気に入り、誘惑しようとするが、実はそれは男装して船に乗り込んでいたメアリ・リード(Mary Read)であった。2人の関係を男女関係として問題視したラカムに説明を求められたが、ラカムは女性であったことを問題視せず、後に他の船員にも事実を公開し、そのまま共に海賊行為を続けることをとなった。以後アンとメアリは乗組員中ただ2人の女海賊、それも男海賊すら一目置く2人組として交友を深めていった。アンは、銃の名手であったと伝えられる。
1720年10月にラカムの海賊船がバハマ総督から派遣されたジョナサン・バレット(Jonathan Barret)船長に捉えられたとき、怖気づいたラカムたち男性乗組員が船倉に逃げ込んだにも関わらず、アンはメアリと共に激しく抵抗した。 しかし衆寡敵せず、捕らえられてしまう。
1720年11月28日、先に裁かれたラカムら男性乗組員とは別にアンとメアリだけの裁判が行われ、死刑が宣告されたものの、2人は妊娠を主張したため、当時の中絶を忌避する慣習に基づき、刑の執行は出産が済むまで延期されることとなった。結局、彼女たちの刑が執行された記録は無く、アンはその後消息不明とされている。
一説によれば、アンは有力者であった父によって赦免を得、名前を変えて生き長らえたのではないかとも言われている。
彼女は海賊としての活動期間が短く、またジョン・ラカムという地味で平凡な船長の手下に過ぎなかったにも関わらず、メアリとともに今日まで名を残しているのは、女性が虐げられていた時代を男性顔負けのたくましさで生き抜いたことによるところが大きいと思われる。
伝説の女海賊として名を残した彼女は、現代にいたるまで多くの芸術・娯楽作品に登場する「女海賊」のモデルとなっている。