アーサー・サリヴァン
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アーサー・サリヴァン(Sir Arthur S. Sullivan, 1842年5月13日 - 1900年11月22日)はイギリスの作曲家で、ウィリアム・S・ギルバート(劇作家、William S. Gilbert, 1836年 - 1911年)と組んでオペラを創った事で良く知られている。
目次 |
[編集] 音楽の道へ
サリヴァンはロンドンで生れた。父親は軍楽隊の隊長をしており、アーサーは8歳になる頃には父のバンドに使うどの楽器も器用に操るようになっていた。ベイスウォーター (Bayswater) の私立学校に行った後、王室礼拝堂の合唱隊への加入を認められ、チェイニー・ウォーク (Cheyne Walk) にあるその合唱隊の学校に通うようになった。その頃、彼は賛美歌や歌を作曲し始めている。
1856年(14歳)に、彼は最初のメンデルスゾーン賞を授与され、学生として王立音楽アカデミーに、1858年まで在籍していた。
1858年(16歳)に、サリヴァンはライプチヒまで旅行し、そこで勉学を継続し、指揮法を学んだ。彼はこの期間に著しい音楽的な成長を遂げた。1862年にロンドンに帰った事で、クリスタル・パレスで演じられたシェイクスピアのテンペストの付随音楽が誕生している。彼は次第に、英国最高の作曲家として評価されるようになっていった。1866年に 交響曲イ長調(アイリッシュ)の演奏会が開かれた。この当時の作品には、イン・メモリアム (In Memoriam)の序曲(1866年)、オラトリオ 放蕩息子 (The Prodigal Son)(1869年)、良く知られている 賛美歌379番(見よや十字架の旗高く、Onward Christian Soldiers)(1872年)と 失われた琴線 (The Lost Chord)(1877年)等がある。
[編集] 20歳代
1866年(24歳)に、1幕物のオペレッタ コックスとボックス (Cox and Box) の総譜を出版する事で収入が増加した。これは歌劇場の為の作曲家として、彼の作品の中でも最も有名で富をもたらす事になった。
[編集] シューベルトの楽譜を発掘
1867年(25歳)の秋、彼はジョージ・グローブとウィーンへ旅行し、未発見のシューベルトの楽譜という貴重な宝物を持ち帰った。
[編集] 30歳代
1871年(30歳)には、ジョン・ハリングスヘッド (John Hollingshead) がサリヴァンに、ゲイエティ劇場 (Gaiety Theatre) のために、ギルバートと、オペレッタ テスピス (Thespis) を創る事を委嘱した。この舞台は必ずしも成功とは言いがたく、その楽譜は後に紛失してしまった。だが一部分は後に ペンザンスの海賊 (The Pirates of Penzance) で使われている。ギルバートとサリヴァンの真の協力体制が始まったのは1875年、リチャード・ドイリイ・カート (Richard D'Oyly Carte) が彼等に1幕物の 法廷での審理 (Trial by Jury) を委嘱した時である。これは大成功であり、三人はその後20年以上にわたり、時には荒れる事もあったが、協力関係を築き、14作品を残した。その後の作品は 魔法使い (The Sorcerer)(1877年)、更に1878年に彼等のそれまででの最大の成功となった 軍艦ピナフォア (Pinafore) が生まれた。この作品はアメリカで頻繁に盗用されたため1879年にギルバートとサリヴァンは著作権を守る為に大西洋を渡った。ニューヨークでは ペンザンスの海賊 が生まれた。
次にギルバートとサリヴァンのオペラ ペイシェンス(Patience) は1881年、ロンドンのオペラ・コミク劇場で披露された。そしてその年の瀬、特別に建てられたサボイ劇場に移って公演された。引き続き二人の協力関係により、アイオランシ (Iolanthe)(1882年)、ミカド (The Mikado)(1885年)、更に 近衛兵 (The Yoemen of the Guard)(1888年)がそこで公開された。彼等の創り出した音楽上の分類は《サヴォイ・オペラ (Savoy Opera)》として知られるようになった。ミカド は、カミーユ・サン=サーンスのオペラ 黄色い王女(1872年)やプッチーニの 蝶々夫人(1904年)など、19世紀末の異国趣味の風潮が舞台に顕著に表れていた時代の産物である。
[編集] 40歳代
1883年(41歳)、サリヴァンはビクトリア女王からナイトの称号を授かった。同時代の批評家は彼のオペレッタ作曲家としての経歴に終止符を打つものと感じていた。と言うのも、騎士称号を得た音楽家はオラトリオや、《大》オペラなど以下のレベルの作品を書くほど身を落とすべきではないと考えたからであった。サリヴァンもまた、サボイオペラが与えてくれた経済的な保証はあったが、次第にギルバートとの仕事が自分の技術以下であり重要ではなくなってきたと感じていた。加えてサリヴァンは、ギルバートの意見を取り入れるために自分の音楽のやり方を抑えなければならないと感じていた。
1886年(44歳)、サリヴァンはカンタータ 黄金伝説 (Ghe Golden Legend) を創って批評家達に応えた。この曲は当時の殆どの人々がサリヴァンの最高傑作だと考えていた。結局、1890年にサリヴァンは次の作品 ゴンドラの船頭達 (The Gondoliers) の後でギルバートと意見の対立があって別の道を歩み、その後、前記のリチャード・ドイリー・カートと共に、ウォルター・スコット(1771年 - 1832年)の小説《アイヴァンホー》を題材にした壮大なオペラを創作して新しい英国オペラハウスで上演された。しかし後で、サリヴァンはギルバートと2つのオペレッタの創作で再び共に仕事をし、他の仲間とは3つの作品を生み出した。
サリヴァンは生涯健康には恵まれず、1900年11月22日ロンドンの自宅で、肺炎により58歳で死亡した。ロンドンのヴィクトリア堤防公園 (Victoria Embankment Gardens) に彼の顕彰碑が建てられた。
[編集] 関連項目
- 著名なSF作家。ギルバート&サリヴァン作品のファンとして知られ、「テスピス」「魔法使い」などいくつかの作品を題材にしたSF小説を書いている。
[編集] 外部リンク
- Sir Arthur Sullivan Society
- http://www.britnett.net/sirarthursullivansociety/
- Gilbert and Sullivan Archive
- http://diamond.boisestate.edu/gas/index.html
- IMSLP - International Music Score Library Project のアーサー・サリヴァン・ページ。