イザベラ・オブ・アングレーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イザベラ・オブ・アングレーム(Isabella of Angouleme, 1188年 - 1246年5月31日)はプランタジネット朝のイングランド王ジョンの2度目の妃。父はアングレーム伯爵エマール。
1200年、ラ・マルシュ伯爵の息子ユーグ10世ド・リュジニャンと婚約の身であったが、ジョン王と結婚した。ジョン王には、アングレームを身内に抱き込むことで、フランスと、甥のブルターニュ侯アーサー支持のアンジュー、メーヌ、トゥルネ、それらと対峙する母エレアノール(アリエノール)の所領アキテーヌとの間に楔を打つのが目的であったが、この強引な結婚が元となってポワトゥーで蜂起が起こった。
王との間に2男3女を得た。長男はヘンリー3世として即位する。次男コーンウォール伯リチャードは一時、神聖ローマ皇帝候補となった(統治はできなかった)。長女ジョーンはスコットランド国王アレグザンダー2世の王妃に、次女イザベラは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の3度目の王妃になった。三女エリナーは、再婚でシモン・ド・モンフォールの妻となった。
1220年、ジョン王の没後、かつての婚約者ユーグと再婚した。子女はイングランドの貴族となった。