フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)
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フリードリヒ2世(Friedrich II., 1194年12月26日 - 1250年12月13日)は、ホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝(在位:1215年11月22日 - 1250年12月13日)、およびシチリア王(フェデリーコ1世、在位:1197年 - 1250年)。イタリア史関係ではイタリア名のフェデリーコ2世(Federico II)で呼ばれる事が多い。
しばしばローマ教皇と対立し、イスラム教徒や東方正教会に対する宗教的寛容を非難されて反キリスト(悪魔を意味する)と呼ばれ2回破門されている。また、当代随一の広い学識、合理性、科学的好奇心から畏敬の念も含めて「世界の驚異」と呼ばれた。近代以降は異文化交流によって培われた合理的思考から「王座の最初の近代人」と評価されている。ヨーロッパ最初の絶対主義君主ともいわれる。
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[編集] 孤児
フリードリヒ2世は1194年12月26日イタリア中部の町イェージで皇帝ハインリヒ6世とシチリア王女コンスタンツェ(イタリア名はコスタンツァ)の間に生まれた。コンスタンツェと結婚したことでシチリア王ともなっていた父ハインリヒ6世が1197年32才で死去すると、ドイツ本国ではホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家の争いが再燃し、幼いフリードリヒの身は危険になった。
母コンスタンツェは相続権を有するシチリアにフリードリヒを連れて戻り、皇帝の相続権を放棄した上で帝国からシチリア王国を切り離し、3歳のフリードリヒをシチリア王にし、自ら摂政となった。
コンスタンツェもその翌年1198年に没し、フリードリヒは教皇インノケンティウス3世の後見を受けてパレルモで成長した。
当時のシチリア島はキリスト教文化とイスラーム教文化とがノルマン人王朝のもとで融合しており、独特の文化を生み出していた。幼い頃より市井を探検するのが好きだったフリードリヒ2世は、ここでキリスト教徒やイスラーム教徒といったさまざまな価値観を持つ人間に触れ、数ヶ国語を話すことが出来たという。彼の異教徒への寛容と理解の精神はこの頃に育まれたものだと見ることが出来よう。また、イスラーム世界で進んでいた自然科学に興味を持ち、イスラーム文化の1つである鷹狩りに関する著書を記している。これは彼自身による詳細な生物観察のもとに記されているのが特徴である。著書の中でしばしば書かれている「ありのままに見よ」という言葉が、彼の自然科学者としての素質を示している。
[編集] 神聖ローマ皇帝
1210年神聖ローマ皇帝オットー4世はローマ教皇によって破門され、1211年ドイツの諸侯は選挙によって教皇の支持を受けたフリードリヒをドイツ王に選出した。翌1212年、フリードリヒはマインツで戴冠してその後7年間ドイツに滞在した。オットー4世は、1214年のブービーヌの戦いで敗れると諸侯の支持を失い、フリードリヒが名実共にドイツ王として認められた。 なお、教皇インノケンティウス3世はフリードリヒがドイツ王の位に就くとき、シチリア王位を嫡子(ハインリヒ7世)に譲らせ、さらにシチリアに留め置くこととしたが、1216年の教皇の死後、フリードリヒ2世はハインリヒを呼び戻した。
1220年フリードリヒ2世はハインリヒ7世にドイツの支配を委ねてパレルモに戻り、十字軍の実行と引き換えに新教皇ホノリウス3世から神聖ローマ皇帝位を認められる。このときドイツの聖職者諸侯はハインリヒ7世の王位を認める代わりに、関税徴集権・貨幣鋳造権・築城権、および領内裁判権の大半を与えられた。 また、ドイツ騎士団の東方進出を認め、これによりプロイセン形成の基礎が作られた。
[編集] 破門十字軍
教皇からは十字軍遠征を度々催促され、遅延を理由に破門される。1225年11月9日、ジャン・ド・ブリエンヌの娘のエルサレム女王イザベルと結婚。1228年、フリードリヒ2世は第6回十字軍を起こし、エルサレムに向かった。フリードリヒ2世とイタリア支配権を争っていた教皇グレゴリウス9世は彼を反キリストと罵り、破門皇帝の軍を正式な十字軍とは認めなかった。
新皇帝となったフリードリヒは聖地奪回を教皇に宣誓した。アイユーブ朝スルタンのアル・カーミルは使節をシチリア島の皇帝のもとに派遣した。使節はそこでキリスト教の教会に描かれたイスラーム教徒の像や、アラビア語の刺繍の入ったマントを着る皇帝フリードリヒを見て驚愕する。報告を受けたアル・カーミルはフリードリヒに書簡を送り、ここから2人の交友が始まった。2人は十字軍に関する話題を避け、お互いが共通に興味を抱く自然科学に関する話題をアラビア語で行ったという。しかし教皇からの執拗な聖地奪回の要請を拒みきれなかったフリードリヒは、武力によってではなく、アル・カーミルとの交渉によって聖地を回復した。この交渉には5ヶ月近い日々が費やされ、最終的にお互いが大きく譲歩することで和解した。
和平協定の大まかな内容は以下の通り。
- イスラームの君主(スルタン:アル・カーミル)は皇帝(神聖ローマ皇帝:フリードリヒ2世)にエルサレムの統治権を譲る。
- 岩のドームはイスラーム教徒が管理する。
- この和平協定を破るような軍事行動を禁じる。
- もしキリスト教世界でエルサレムへ軍を送ろうとする動きがあれば、神聖ローマ皇帝はイスラームの君主を守る。
- イスラームの威厳と尊厳を理解する者ならば、たとえキリスト教徒であっても岩のドームに立ち入れる。
エルサレムに入城したフリードリヒ2世は、聖墳墓教会でエルサレム国王として戴冠した。このとき岩のドームを訪れたフリードリヒに配慮したイスラーム教徒たちが、定時の祈りの声を挙げないようにした。これを聞いたフリードリヒは不快感を示し、「私はエルサレムへ着いたら、イスラーム教徒の祈りの声を聞くことを楽しみにしていた」と言った。彼の気持ちを知ったイスラーム教徒らは祈りの斉唱をしたという。
これにはフリードリヒ2世の語学的才能と外交の手腕が生かされており、パレルモの宮廷におけるイスラム教徒との接触で養った合理主義がよく表れている。しかし、教皇グレゴリウス9世はフリードリヒ2世の行ったイスラム教徒との交渉を背教と非難したため、教皇派と皇帝派の争いはエルサレムに持ち込まれ、戴冠式に出席した聖地騎士団はドイツ騎士団だけだった。
フリードリヒ2世の支配の下、キリスト教徒巡礼者の安全は保障され、イスラム教徒もそれまでどおりの生活を許されたが、休戦期間は10年でありエルサレムの城壁の再建も許されていなかったため、その支配の継続性は極めて危ういものだった。
しかも、イタリアにおいて教皇派と皇帝派(ゲルフとギベリン)の争いが再燃し、フリードリヒ2世は帰国を余儀なくされた。帰国したフリードリヒ2世が教皇派の軍を撃破すると、教皇の権威は失墜する一方、曲がりなりにも聖地を回復したフリードリヒ2世の評価は上がり、1230年には破門を解かれた。
エルサレムの休戦は1240年に切れ、1244年に再びイスラム教勢力により陥落したが、イタリア政策で教皇と対立するフリードリヒ2世には、これに対処する余裕も意思も無かった。
[編集] 息子の反乱
世俗の諸侯は混乱に乗じて、聖職者諸侯が得た特権と同じものを皇帝に要求し、フリードリヒ2世はイタリア政策に専念するためこれを認めた。王権の強化を狙っていた嫡子ハインリヒは父帝の政策に反発し、1235年に反乱を起こしたが敗れて幽閉され、その後に自殺した。また反乱に加担したオーストリア公フリードリヒ2世(好戦公)を追放し、1237年にオーストリアを皇帝直轄地とした。
[編集] ゲルフ対ギベリン
フリードリヒ2世のイタリア支配は安定した成功を収めることがなく、1237年のコルテヌオヴァの戦いのようにしばしば軍事的な勝利を収めることはあったものの、教皇に従うドイツの諸侯や独立を望むロンバルディア同盟などの頑強な抵抗に会って頓挫した。
1245年、教皇インノケンティウス4世は、フリードリヒ2世をイスラム教徒の友人、異端と非難して破門、皇帝の解任を宣言し、以降次々に対立国王を擁立した。
フリードリヒ2世は1250年12月13日、カステル・フィオレンティーノ(現在のフォッジャ県サン・セヴェーロ付近)で没し、次男コンラート4世が後を継いだが、ホーエンシュタウフェン朝の支配は揺るぎ始める。
[編集] 世界の驚異
- 当時十字軍にコンスタンティノポリスを追われていた東ローマ帝国の亡命政権(ニカイア帝国)の皇帝ヨハネス3世とギリシャ語で親しく書簡を交し合い、庶子のコンスタンツェをヨハネス3世の下へ嫁がせている。本来ニカイア帝国は西欧にとっては敵対勢力であったにもかかわらず、むしろ反ローマ教皇の同盟者として扱っていたのである。このことからも、いかにフリードリヒが宗教・宗派の枠にとらわれない人物であったかが良く分かる。
- シチリア王国にローマ法に基づく中世最初の国家法典「皇帝の書」(Liber Augustalis)を制定した。
- シチリアは歴史的にギリシア人、サラセン人、イタリア人が同居し、これにノルマン人、ユダヤ人、ドイツ人が加わり、海外との交流も多い国際色豊かな土地であり、その中で育ったフリードリヒ2世はドイツ人というよりシチリア人であり、ノルマン朝の後継者であった。ビザンティン風の王宮に住み、ハーレムに多くのアラブ人女性をはべらせていたという。
- 好奇心あふれる学者であり、動物学や占星術に興味を持ち、パレルモに巨大な動物園を持ち、ナポリ大学を創設している。鷹狩を好み、鷹の飼育に関する詳細な著作をしている。文学も好み、9ヶ国語を操り、ラテン語で著作をし、シチリア語で詩を作った。
[編集] 逸話
- 様々な言語が飛び交うパレルモで育ったフリードリヒ2世は、人は自然には何語を話すのか疑問に思い、生まれたなりの赤子を集めて一切話しかけずに育てたところ、いずれも死んでしまったという。
- 母コンスタンツェがフリードリヒ2世を生んだのは40歳で、当時としては高年齢であり本当に妊娠しているのか疑う者もいたため(継承者を得るには手段を選ばない時代だった)、町の広場で多くの人間の証人の元で出産したといわれる。
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