イタリア領東アフリカ
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イタリア領東アフリカ (Africa Orientale Italiana) とは、1936年5月9日に成立したエチオピア、イタリア領ソマリランド、エリトリアの3地域を合わせたイタリアの植民地。約5年後に解体された。
エチオピア地方はインド、アジア貿易に欠かせない紅海南部に面しているため、1880年代に始まったアフリカ分割においてイギリスが植民地化を進めた。フランスはアフリカ大陸を南北に伸びるイギリス植民地の分断と内陸部の石炭に興味を示していた。イタリアは植民地獲得に出遅れており、北アフリカの空白地帯、獲得に乗り出していた。
イタリアは1870年代に紅海南部に面したエリトリアを買収。エリトリアはエチオピアの北に接する地域である。1889年にはエチオピアの南東に接するイタリア領ソマリランド(現ソマリア南部)を獲得した。
エチオピアの北と南東を獲得後、南(ケニア)、西(スーダン)、東(イギリス領ソマリランド、現ソマリア北部)を植民地化していたイギリスの支援を受け、1896年に、エチオピアの保護領化を開始する。ところが、紅海の出口であるジブチを獲得し、エチオピアの首都アジスアベバとの鉄道も敷設していたフランスがエチオピアを支援したこともあり、1896年3月1日エリトリア国境にほど近いアドワの戦いで大敗を喫する。これを第一次エチオピア戦争という。このとき軍事的に勝利したため、エチオピアはリベリアと並んでアフリカ大陸の数少ない独立国として残った。
しかし、イタリアはアフリカにおいてリビア、イタリア領ソマリア、エリトリアの3ヶ所しか植民地を保有していなかったため、再度エチオピア獲得を目指した。1934年にエリトリア、エチオピア国境で発生した銃撃戦は、いったん和平交渉の形をとったものの、1935年10月2日にベニート・ムッソリーニがエチオピア侵略を開始。これを第二次エチオピア戦争という。エリトリアとソマリランドから進入し、1936年5月5日にはエチオピアの首都アジスアベバが陥落、5月9日に、イタリア国王であったヴィットーリオ・エマヌエーレ3世がイタリア領東アフリカ皇帝となった。
エチオピアは1923年に国際連盟に加入していたため、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は国連に援助を要請した。しかし、国連の加盟国間で意見が一致しない。アメリカとソビエト連邦はイタリアの行為を侵略と認めたが、イギリスとフランスはイタリアとの戦争を恐れ、イタリアの行為を承認。結局、国連の採決はイタリアを処罰しないというものになった。
その後、イタリア人の入植が始まる。道路と農業プランテーション、軽工業を中心とした工場の建設を進めた。銀行制度や独自通貨発行、郵便制度なども整備した。しかしながら、特にエチオピア地域で反発が強く、植民地経営はうまくいかなかった。
約4年後の1940年6月10日にイタリアが第二次世界大戦に参戦すると、周囲のイギリス植民地との戦いが始まる。イタリア軍は劣勢となり、1941年5月5日にはハイレ・セラシエ1世が首都に再入城。1941年11月28日にはエチオピア内の全イタリア軍が降伏した。1943年には、既に名目上の皇帝となっていたヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が退位した。
エチオピアは再度エチオピア帝国として独立、いったんイギリスの影響下で自治体制にあったエリトリアを1952年に連邦国家として組み込み、1962年から1993年までエチオピアの一州とした。イタリア領ソマリランドは1950年から1960年までイタリアの信託統治下にあったが、1960年にイギリス領ソマリランドとほぼ同時に独立、統一国家となった。