第二次エチオピア戦争
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第二次エチオピア戦争は、1935年から1936年にかけて起きたイタリア王国とエチオピア帝国の戦争。第一次エチオピア戦争で敗れたイタリアは、再度エチオピアの植民地化を意図した。また国際紛争の解決において大国の利害に左右された国際連盟の無力さが露呈した戦争でもある。
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[編集] 背景
世界恐慌後のイタリアの状況、人口の増加に比して経済の著しい低迷、高い失業率を背景として、イタリアのファシズム体制の独裁者ベニート・ムッソリーニは、「古代ローマ帝国の再興」、「地中海を再び我らが海に」という彼の野望を民族主義的に鼓舞しながら、余剰人口や資源の為の植民地の獲得、国威発揚を目的として膨張政策を推し進めた。
植民地として第一候補に挙げられたのがエチオピアである。アフリカ分割によりアフリカのほとんどはイギリスやフランスなどの植民地と化していたが、その中でエチオピアは独立を維持していた国の一つであった。また他の理由として、地理的にはエチオピアはイタリア領のエリトリアとソマリランドに隣接しており攻撃しやすかったこと、天然資源が豊富であったこと、第一次エチオピア戦争という過去を口実にできたことがある。
[編集] ワルワル事件
イタリア領ソマリランドとエチオピアの国境を策定した条約では、ベナディール海岸から21リーグ内陸を平行した線とされていた。イタリア側は、より大きくエチオピア領を侵食しようという意図から、標準的なリーグではなく、海事におけるリーグと解釈した。1930年にはエチオピアのオガデン地方のオアシスであったワルワルにイタリア軍が要塞を築き、1932年にかけてイタリア領ソマリランドからの進出はますます顕著になり、明らかにエチオピア領内である場所に道路までも建設され始めた。
1934年11月、エチオピアの地方守備隊を伴ったイギリス領ソマリランドとエチオピアの国境策定委員会は、このイタリアの侵略に抗議したが、委員会のイギリス代表は、国際紛争化を避けるためにすぐに現地を退去した。12月上旬、ワルワルの地で両軍が衝突し、エチオピア軍に150人、イタリア人に50人の死者が出て、緊張状態は最高度に達した。
1935年1月、エチオピアはイタリアの侵略を国際連盟に提訴した。この問題を巡って国際連盟は「アビシニア危機」と呼ばれる政治危機に揺れるが、国際連盟の中心的存在であった英仏の宥和政策に引きずられて、1935年9月、国際連盟の仲裁委員会は紛争当事者双方に責任なしという裁定を下し、事実上事態の推移を傍観するだけであった。
この間、イタリアはエリトリアとソマリランドの軍をエチオピア国境に集結させ始めた。攻撃がもはや避けられないものとなるや、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエは、国家総動員を命令し、50万人の新兵を集めたが、彼らの多くは、槍や弓矢といった原始的な武器しか持っていなかった。
[編集] 戦争の経過
1935年10月3日、エミリオ・デ・ボーノ将軍を総司令官とする10万人のイタリア軍が、宣戦布告なしにエリトリアから侵攻を開始した。イタリア軍の大半は、アスカリと呼ばれる土着民の傭兵が占めていた。またソマリランドからロドルフォ・グラツィアーニ将軍の一軍が攻撃した。イタリア軍は快進撃を続け、10月6日にアドワ、15日にアクスムを占領した。
10月7日、国際連盟はイタリアを侵略者とする採択を可決し、イタリアに対する経済制裁を開始したが、石油などの重要な戦略物資には適用されることはなかった。これは、たとえ禁止したとしても、イタリアは国際連盟に加盟していないアメリカから購入することが可能であるから意味がないとする英仏の宥和政策に基づく主張が背景にあった。また、国際連盟によって和平案(ホーア・ラヴァル案)が立案されたが、基本的にイタリアによるエチオピアの植民地化を容認する内容で、あまりにイタリア寄りの内容であったため、エチオピアはこの受諾を当然に拒絶した。
12月中旬、用心深い性格で進軍がはかどらないボーノ将軍に代わり、ピエトロ・バドリオが総司令官に就任した。バドリオはハイレ・セラシエの反撃に対して空中から大量の毒ガス(マスタードガス)を散布し、これを撃退した。1936年3月29日、グラツィアーニの空軍部隊は、エチオピア東部の都市ハラールを焼夷弾で焼き払った。3月31日、最後の主要な戦闘であるメイチュウの戦いは、イタリア軍の勝利に終わった。5月2日、ハイレ・セラシエは国外へ脱出し、後にイギリスに亡命した。5月5日、イタリア軍は首都アディスアベバを占領した。
5月7日、イタリアはエチオピアを併合し、5月9日、イタリア領のエリトリア、ソマリランドを合わせたイタリア領東アフリカ帝国の樹立と、その皇帝にイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の就任を宣言した。
[編集] 戦後
同植民地に対する、当初の目的であった移住、植民活動は、実際には規模も小さく、内実から言えば芳しくなかった。その後、第二次世界大戦においてイギリス軍の侵攻により、1941年東アフリカ帝国は崩壊した。
[編集] 関連項目
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