ウィリアム・ミッチェル
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ウィリアム・ミッチェル(William (Billy) Mitchell 1879年12月28日―1936年2月19日)は、アメリカ合衆国の陸軍准将。
[編集] 生涯
フランスのニースに生まれ、米西戦争に米陸軍の二等兵として従軍し、その後に陸軍通信隊に少尉として配属され、キューバ、フィリピン、アラスカに赴任する。1909年に参謀大学校を卒業し、1915年に米陸軍航空隊の指揮官として航空戦で活躍し、1918年にサン・ミールの戦いで1500機の部隊を指揮し、ミューズ・アルゴンの戦役では200機の爆撃機を指揮した。この功績で米国だけでなく同盟国からも勲章を受ける。第一次世界大戦が終結してからは陸軍航空隊副司令官に就き、空軍力の重要性を論じるようになり、独立空軍の創設を主張し、陸海軍の保守的な態度を「無能、職務怠慢」と痛烈に批判した。それが陸海軍の反発を買い、25年に軍法会議にかけられて五年間の停職処分を受ける。一年後には除隊し、その後は航空問題の啓蒙活動に携わり、戦略爆撃の効果などを論じる。死後、1946年にはその功績が認定されて議会名誉黄金勲章が授与された。