ウラジーミル・ココツェフ
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ウラジーミル・ニコラエヴィッチ・ココツェフ伯爵(Влади́мир Никола́евич Коковцо́в、Vladimir Nikolayevich Kokovtsov、1853年~1943年)は、帝政ロシアの政治家。皇帝ニコライ2世の下、首相、大蔵大臣などを歴任した。日本との関係では伊藤博文が安重根に暗殺される直前にハルピンで会談予定の相手として知られる。
ロシア帝国経済省勤務を経て、1890年代中頃には、セルゲイ・ヴィッテ蔵相の下でヴィッテを補佐した。その後いくつかの官職を経て、1904年蔵相となる。その後、イワン・ゴレムイキン、ピョートル・ストルイピン両内閣でも蔵相を務めた。1911年ストルイピン暗殺後は、ストルイピンの後を継いで蔵相兼務のまま、大臣会議議長(首相)を務めた。首相退任後は伯爵の爵位を授与される。1917年ロシア革命が勃発すると、家族とともにフィンランドに亡命する。その後パリに移り、死去するまで亡命ロシア人(白系ロシア人)社会の重鎮であった。
ウィッテは彼の回想録の中で、ココツェフを大蔵省改革の良き片腕として紹介している。
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