柳沢敦
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柳沢敦(やなぎさわ あつし、1977年5月27日-)は、富山県射水郡小杉町(現射水市)出身のサッカー選手である。ポジションはFW。
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プレースタイル
スペースの作り方、オフ・ザ・ボール(ボールを持たないところ)の動きが得意。2002年日韓W杯での日本の得点にも貢献した。反面ストライカータイプの選手ではないため、「点の取れないFW」という批判が多く、本人も「点を取るだけがFWではない」と語り、そのことが物議をかもしたこともある。ジーコやブッフバルトなどは彼の能力を高く評価している。特に日本代表監督であったジーコは、フォーメーション・ポジションの変更に対しての柔軟さを買って、代表メンバーに柳沢をコンスタントに召集した。
反面、ゴール前での積極性・確実性を欠き、またメンタル面が弱いという欠点があるといわれる。傾向としては2001年のイタリアとの親善試合でのボレーシュートのような難易度の高いゴールが多い一方で、ドイツW杯でのクロアチア戦(後述)のような大一番の場面で「ゴールに流しこむだけ」の簡単なシュートを決められないことも多く、それが批判の原因と言われる。
所属チーム
- 1990年 - 1992年 FCひがし
- 1993年 - 1995年 富山第一高校
- 1996年 - 2003年 鹿島アントラーズ
- 2003年 - 2004年 サンプドリア(レンタル移籍)
- 2004年 - 2005年 FCメッシーナ(2004年7月~レンタル移籍、2005年7月からは完全移籍)
- 2006年 - 現 在 鹿島アントラーズ(2006年3月1日から6月30日までレンタル移籍、2006年7月以降は完全移籍)
経歴
中学時代にU-15日本代表に選ばれる。富山第一高校時代からJリーグのスカウトの注目を集め、高校3年の時の高校選手権では超高校級プレイヤーとして大会の目玉となった。
1996年、富山第一高校から鹿島アントラーズに入団。1年目から出場し、2年目には18得点をマークして新人王に選ばれる。3年目には22得点をマークし鹿島のエースに成長。岡田ジャパンでA代表初招集され、1998年2月15日の親善試合オーストラリア戦で代表デビューを飾る。対京都パープルサンガ戦(4月4日)では一試合4ゴールも記録している。しかしゴールへの執着心に欠けるとして岡田監督から批判され、フランスW杯の最終メンバーに入るには到らなかった。
トルシエ監督下のU-23代表ではエースとして期待されていたが、1999年代表合宿を抜け出して当時の恋人梨花と密会していたことをフライデーに撮られ一時期代表から離れることを余儀なくされた。しかし2000年6月6日、ハッサン二世国王杯のジャマイカ戦でA代表初ゴールを挙げると徐々にトルシエの信頼を取り戻し、代表では同じ鹿島でコンビを組む鈴木隆行との2トップを組み白星を重ね、日韓W杯本選のメンバーに選ばれた。
W杯ではゴールを決めることができなかったが、献身的なプレイが評価され、2003-2004シーズン開幕前にイタリアセリエAの古豪サンプドリアに期限付き移籍ではあるが海外移籍を果たす。同年12月24日、モデルの小畑由香里と入籍。
しかし、自身のプレイスタイルとセリエAのレベルの高さによりサンプドリアでは無得点に終わる。サンプドリア側に契約延長の意思は無くサンプドリアを退団。柳沢が海外残留を希望したため、鹿島には戻らず同じセリエAのFCメッシーナと契約する。(1年間の期限付き移籍)
しかし、メッシーナでもゴールを決めることが出来ず、「点が決められないFW」としてイタリアでも非難の的となった[要出典]。シーズン途中からMFとして主に左サイドで起用されるようになる。2005-2006シーズン開幕前には柳沢本人が残留を希望しメッシーナに完全移籍を果たす。ただ、このときはメッシーナ側に移籍金を満額払える余裕はなかったため移籍金の半額だけ払うという「共同保有」の形を取った。そのため、契約が満了した場合の優先交渉権は鹿島に残り、Jリーグのクラブが獲得を打診する際の窓口も鹿島になる。
05-06シーズン開幕前にレッジーナでプレーしていた中村俊輔がスコティッシュ・プレミアリーグのセルティックに完全移籍しフィオレンティーナでプレーしていた中田英寿がFAプレミアリーグのボルトンへ期限付き移籍したため、05-06シーズンでは日本人唯一のセリエAプレイヤーであったが、自身の出場機会は乏しくノーゴールが続いた。ドイツW杯の出場に向け、12月には出場機会の少ないことに不満を訴えクラブに移籍を希望。2006年3月からW杯終了の6月末まで古巣鹿島への期限付き移籍という形で了承された。
なおレッジーナとの海峡ダービーで決勝アシストを決め「柳沢は海峡の王様だ」との見出しが地元紙に載ったり[1]、出場機会の減少にもかかわらず3年目のシーズン開幕前には今年の注目選手として特集記事を組まれたり、地元ではMFとしてある程度の評価を得ていたようではある。
鹿島では背番号は13番。日本での復帰戦となった2006年Jリーグ開幕戦のサンフレッチェ広島戦ではスタメンでフル出場、ハットトリックを達成。しかし同年3月25日のジェフ千葉戦で右足の痛みを訴えて交代、翌日に右第5中足骨骨折で全治2カ月と診断された。
怪我の影響が心配される中、2006年ドイツW杯日本代表の23人に選出される。5月30日の本選前のテストマッチドイツ戦で試合に復帰。
W杯ではグループリーグ初戦のオーストラリア戦からスタメンとして出場したが、2戦目の対クロアチア戦で、ゴール目前で加地亮が大きなチャンスを作るもそのチャンスをシュートミスで逃した[2]。世界各国のメディアからも厳しい評価を受け[3][4][5]、これに関して柳沢は試合後「急にボールが来たので」(俗に言う『QBK[6]発言』)と釈明[7]。プロの代表FWにあるまじき態度であるなどとしてネット社会を中心とした従前からのバッシングが激化。ジーコにも後日ブラジル報道陣とのインタビュー中に「準備不足」と批判された[8]。
そのシュートについて、ボールに触れた時点で実はオフサイドであり、仮にボールが枠内に入っていてもノーゴールであったのではないか、あるいはパスのスピードが速く、それほど簡単にシュートを打てる状況ではなかったのでは、などとして一部のファンの中には同情的な意見もある。また、加地のキックは柳沢へのパスではなくゴールを狙ったシュートであり、それがミスで柳沢のところに来たとの見方[9]もあり、三浦知良も「(柳沢は)こぼれ球を狙っていた」[10]と推察している。
第三戦の対ブラジル戦では控えに廻り、出場の機会は与えられなかった。
また、W杯終了後にはレンタル元のメッシーナとの交渉により、鹿島アントラーズへ完全移籍した。オシムジャパンでは代表に選出されず、J復帰元年は4得点に終わった。
多くの批判を受けながらも依然所属チームでの信頼は厚く、2007年に本田泰人の引退を受けて、鹿島の新主将に就任した[11]。選手会長との兼任。
個人成績
年度 | チーム | リーグ | リーグ戦 | カップ戦 | 天皇杯 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | |||
1996年 | 鹿島 | J1 | 8 | 5 | 6 | 1 | 1 | 0 |
1997年 | 鹿島 | J1 | 25 | 8 | 9 | 2 | 5 | 2 |
1998年 | 鹿島 | J1 | 32 | 22 | 5 | 0 | 1 | 0 |
1999年 | 鹿島 | J1 | 26 | 9 | 3 | 1 | 2 | 0 |
2000年 | 鹿島 | J1 | 26 | 6 | 3 | 0 | 3 | 1 |
2001年 | 鹿島 | J1 | 26 | 12 | 5 | 2 | 1 | 1 |
2002年 | 鹿島 | J1 | 27 | 7 | 3 | 0 | 5 | 1 |
2003年 | 鹿島 | J1 | 8 | 2 | - | - | - | - |
2003年-2004年 | サンプドリア | セリエA | 15 | 0 | - | - | - | - |
2004年-2005年 | メッシーナ | セリエA | 22 | 0 | - | - | - | - |
2005年-2006年 | メッシーナ | セリエA | 7 | 0 | - | - | - | - |
2006年 | 鹿島 | J1 | 23 | 4 | 3 | 1 | 2 | 1 |
通算 | J1 | 201 | 75 | 37 | 7 | 20 | 6 | |
セリエA | 44 | 0 | - | - | - | - |
個人タイトル
- 1997年 - 新人王
- 1998年 - Jリーグ ベストイレブン
- 2001年 - Jリーグ ベストイレブン、フットボーラー・オブ・ザ・イヤー
代表歴
年度 | 試合 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|---|
出場 | 得点 | ||
1998年 | (11) | 2 | 0 |
1999年 | (7) | 4 | 0 |
2000年 | (18) | 10 | 4 |
2001年 | (13) | 6 | 5 |
2002年 | (13) | 9 | 0 |
2003年 | (16) | 5 | 2 |
2004年 | (22) | 8 | 2 |
2005年 | (20) | 10 | 4 |
2006年 | (19) | 4 | 0 |
通算 | 58 | 17 |
コマーシャル出演
書籍
- 俺のシュートを受けてみろ!-若きストライカーの自画像(1997年、主婦と生活社、ISBN 4391120364)
- 柳沢敦(鹿島アントラーズ)カレンダー2003(2002年、ハゴロモ、ISBN 489495317X)
DVD
- 柳沢敦DVDバイオグラフィーAの肖像(2003年)
関連項目
脚注
外部リンク
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鹿島アントラーズ - 2007 |
---|
1 小澤英明 | 2 内田篤人 | 3 岩政大樹 | 4 大岩剛 | 5 ファボン | 7 新井場徹 | 8 野沢拓也 | 9 田代有三 | 10 本山雅志 | 11 ダニーロ | 12 サポーター | 13 柳沢敦 | 14 増田誓志 | 15 青木剛 | 16 中後雅喜 | 17 興梠慎三 | 18 マルキーニョス | 21 曽ケ端準 | 22 石神直哉 | 23 船山祐二 | 24 當間建文 | 25 遠藤康 | 26 小谷野顕治 | 27 田中康平 | 28 首藤慎一 | 29 杉山哲 | 30 大道広幸 | 31 後藤圭太 | 32 吉澤佑哉 | 34 佐々木竜太 | 監督 オズワルド | クラブ | |
日本代表 - 2006 FIFAワールドカップ | ||
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1 楢崎正剛 | 2 茂庭照幸 | 3 駒野友一 | 4 遠藤保仁 | 5 宮本恒靖 | 6 中田浩二 | 7 中田英寿 | 8 小笠原満男 | 9 高原直泰 | 10 中村俊輔 | 11 巻誠一郎 | 12 土肥洋一 | 13 柳沢敦 | 14 三都主アレサンドロ | 15 福西崇史 | 16 大黒将志 | 17 稲本潤一 | 18 小野伸二 | 19 坪井慶介 | 20 玉田圭司 | 21 加地亮 | 22 中澤佑二 | 23 川口能活 | 監督 ジーコ |
日本代表 - 2002 FIFAワールドカップ | ||
---|---|---|
1 川口能活 | 2 秋田豊 | 3 松田直樹 | 4 森岡隆三 | 5 稲本潤一 | 6 服部年宏 | 7 中田英寿 | 8 森島寛晃 | 9 西澤明訓 | 10 中山雅史 | 11 鈴木隆行 | 12 楢崎正剛 | 13 柳沢敦 | 14 三都主アレサンドロ | 15 福西崇史 | 16 中田浩二 | 17 宮本恒靖 | 18 小野伸二 | 19 小笠原満男 | 20 明神智和 | 21 戸田和幸 | 22 市川大祐 | 23 曽ヶ端準 | 監督 トルシエ |
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